ページ番号を入力
本文
その起源を奈良時代までさかのぼる曹洞宗「雲洞庵」をご紹介します。
最初足を踏み入れて感じたことは、年月を経た多くの大木がある中、落ち葉なども見当たらず、細部に亘って手が加えられていてその心配りが感じられ、自然と心穏やかになる自分を感じました。
赤門から本堂に続く参道の石畳の下には、一石一字ずつ法華経が認められて埋められており、この参道を通りお参りすると罪業消滅、万福多幸のご利益があるとのことです。
「雲洞庵の土踏んだか」という言葉は、「雲洞庵で曹洞宗の禅を学なければ一人前の禅僧とは言えないぞ」とお互いに禅の修行を励ましあった合言葉が起源とも伝えられています。
いずれにしても有難い苔生えた石畳を、耳を劈(つんざ)くほどの蝉時雨を浴びながら、穏やかな気持ちで「踏んで」きました。
赤門
赤門
参道
苔生えた石畳
雲洞庵はさかのぼること1300年前の奈良時代に、時の内大臣藤原房前の母親が当地に湧き出る霊泉で多くの人々を救い、ここに庵を結びました。
その菩提を弔うため藤原房前(※1)が養老元年(717年)に薬師如来を本尊とする金城山(※2)雲洞庵を建立したのがその起源とされています。
この金城山という名前は、藤原房前が当地を訪れた際、朝日で金色に映える山が黄金の城に見えたことから名付けたと伝えられています。
以来、藤原家の尼僧院として庇護され600年間に亘り栄えました。
(※1)「藤原房前」 藤原不比等の子、祖父に大化の改新で有名な藤原鎌足を持つ。藤原不比等も律令の制定に携わるなど朝廷の重鎮。
(※2)「金城山」 雲洞庵の後方に位置する標高1,369mの山。
本堂
室町時代の永享年間、同庵は関東管領を務めた上杉憲実(※1)によって禅寺として再興され、後に27の末寺をもつ大寺院となり越後四箇之道場の一つに数えられました。
また雲洞庵宝物殿には甲斐国大名武田信玄、勝頼からの書状等が展示されています。
NHKの大河ドラマになった上杉景勝、直江兼続が学んだという雲洞庵十世北高全祝(※2)は、上杉謙信、武田信玄の禅の師としても知られており、当時の武将たちが師の意見を求めその薫陶を仰ごうとしている書状の内容からも、いかに高い徳を持っていたのかが偲ばれます。
両雄に、戦で民百姓が苦しまないため戦場を川中島にすることや塩を武田側に送ることを勧めたのもこの十世北高全祝であると言われています。
(※1)「上杉憲実」 越後の生まれ。関東管領上杉憲基の養子となり同職を務める。
伊豆に出家した後、雲洞庵高岩長棟と称しました。
(※2)「北高全祝(ほっこうぜんしゅく)」 雲洞庵十世住職。
後に武田信玄に請われて信州岩村田(現佐久市)の龍雲寺住職に就く。
川中島の合戦の前に上杉謙信へ「生中に生あらず、死中に生あり」との言葉を授け、謙信は「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり」と決意を壁書したとも伝えられています。
観音堂に安置されている千手千眼観音像。その全体のお姿は格子で遮られていて拝見できませんでしたが、雲洞庵のホームページの写真からそのご威光を感じました。
この千手観音はお酉の百体観音とともに安置され、逸話が残っています。(※1)
(※1)「お酉の百体観音のお話」 酉年の酉の月、酉の日、酉の刻に当地に生まれたお酉という才色兼備な娘が都で官女をすることになり、娘の身を案じた母親が雲洞庵の千手観音のお守りを持たせました。
お酉は宮中では働き者で知られ、人から慕われるような官女でしたが、これを妬んだ女官がお酉の部屋に火を放ちました。
すると千手観音のお守りから幾百の鳥となってお酉を救い出しました。
後にお酉は百体の観音様をねんごろに祀ったというお話。
雲洞庵は曹洞宗で坐禅堂があります。
堂の中央には知恵の象徴である文殊菩薩が鎮座しており、心のゆるみを正す警策棒も拝見することができ、厳しい禅宗の修行の場であることが伺えます。
坐禅の「坐」の字は人が向き合っています。
これは自分と向き合う、つまり坐禅は自分を見つめることと聞いたことがあります。
坐禅堂の中には入れませんでしたが、窓側には坐禅用の畳があります。
興味のある方は大木に囲まれた、静寂の中で自分との対話を試みてはいかがでしょうか。
(訪問時には蝉の声三昧でした。これもまた何かの縁。心落ち着かせて座ってきました)
坐禅堂
坐禅堂内部と文殊菩薩
地図で南魚沼の南魚沼の名所を表示<外部リンク>
雲洞庵 電話025-782-0520
【補足事項】
本ページは新潟県南魚沼地域振興局企画振興部が作成しています。
掲載内容については正確を期すよう努めていますが、情報が不足する点もあります。
ご利用の詳細及び最新情報につきましては直接、施設管理者(上記問い合わせ先)へお問い合わせ願います。