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【長岡】北越戊辰戦争ゆかりの地を紹介します(3 「榎峠古戦場パーク」、「朝日山古戦場」、「船岡山西軍墓地」、「『峠』の碑」)

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0053499 更新日:2020年3月27日更新

 1868年(慶応4年)、京都近郊の鳥羽伏見で同盟軍(東軍)と新政府軍(西軍)が衝突し、戊辰戦争の火蓋が切られました。京での戦いに勝利を収め、江戸城を無血開場させた新政府軍は、反抗勢力を制圧しようと各地へ軍隊を送りました。戦火が関東、東北、北海道へ広がる中で、現在の新潟県においても「北越戊辰戦争」と呼ばれる激しい戦いがありました。
 特に軍事総督、河井継之助率いる長岡藩は、同盟軍としておよそ3か月にもわたる熾烈な攻防戦により新政府軍を脅かし、その戦いぶりは後世にまで語り継がれています。
 北越戊辰戦争ゆかりの地は、司馬遼太郎氏が河井継之助を主人公に執筆した小説『峠』にも描かれ、多くの歴史ファンを魅了しています。
 長岡地域振興局管内を中心に、北越戊辰戦争の舞台となった場所を御紹介します。

榎峠古戦場パーク(長岡市)

 北越戊辰戦争での長岡藩の戦いは、榎峠で始まりました。
 1868年(慶応4年)旧暦5月10日(新暦6月29日)、長岡藩は、新政府軍に占拠された三国街道の難所である榎峠の奪還に向かいます。信濃川対岸からの新政府軍の砲撃に苦戦しますが、作戦通り迂回していた別働隊が側面、背後から新政府軍を包囲して攻め、榎峠を奪還しました。
 長岡藩をはじめとする同盟軍が勝利すると、戦いは南側に位置するもう一つの要地、朝日山の争奪戦へ移っていきました。
(参考文献:新潟日報社「戊辰戦争140年中越の記憶」取材班 『戊辰戦争140年中越の記憶』 新潟日報事業社 平成21年7月)

「榎峠古戦場パーク」
所在地:長岡市妙見町
交通:長岡駅からバス30分(小千谷駅からバス7分)、浦柄三叉路下車で徒歩5分

榎峠古戦場パークの写真です
榎峠古戦場パーク

朝日山古戦場(小千谷市)

 榎峠の奪還に成功した長岡藩ら同盟軍は、もう一つの要所である朝日山の争奪に動きました。同盟軍は山頂から激しく銃弾を降らせ、優位に立ちます。
 一方、新政府軍は低地に塹壕を築いて応戦したものの苦戦し、奇兵隊による山頂への奇襲も失敗して参謀代理である長州藩の時山直八ら多数の戦死者を出しました。
 また、同盟軍側でも悲劇が伝えられています。会津藩白虎隊士、当時16歳の新国英之助は父親とともに見張りを任されていました。朝方、父親は敵兵を見つけると傍らで寝入っていた息子を起こす間もなく山頂に敵兵奇襲の報告に走り、残された英之助は無念の最期を遂げました。
 戦後、明治政府は同盟軍兵士への厳しい弾圧から遺体の放置を命じ、遺体は朝日山の各所に朽ち果てるままになっていました。1953年(昭和28年)になり、小栗山村(小千谷市)福生寺の住職が地元の人々とともに遺骨を集めて朝日山のふもと、浦柄神社の境内に21基の墓碑を建て、手厚く葬りました。
 新国英之助の墓碑は、戊辰戦争後二十数年を経て、父親がその遺体を探し当てて建立したもので、現在は他の戦死者の墓碑に並んでいます。
 また、長岡市出身の山本五十六が海軍中将の時に、浦柄神社境内に戦跡記念碑を建てています。のちに連合艦隊司令長官となった五十六は、北越戊辰戦争で活躍した長岡藩上席家老・軍事総督であった山本帯刀の家名を継ぐため、山本家に養子に入っています。
(参考文献:新潟日報社「戊辰戦争140年中越の記憶」取材班 『戊辰戦争140年中越の記憶』 新潟日報事業社 平成21年7月
 渡辺れい 『維新の墓標』 新潟日報事業社 平成30年3月)

「浦柄神社(朝日山古戦場入り口)」
所在地:小千谷市浦柄660
交通:小千谷駅からバス7分、浦柄三叉路下車徒歩6分

朝日山古戦場記念碑の写真です
朝日山古戦場記念碑

フランス式塹壕跡の写真です
山頂付近に今も残るフランス式塹壕跡

浦柄神社に立つ22基の墓標です
浦柄神社境内にある22基の墓碑

戊辰戦跡記念碑です
山本五十六書「戊辰戦跡記念碑」

「朝日山古戦場」についてはこちらをクリックしてください(小千谷市ホームページにリンクします)<外部リンク>

船岡山西軍墓地(小千谷市)

 市街地南部に位置する船岡山にあり、桜やあやめが咲き誇る、小千谷市民憩いの場である船岡公園。その一角には、北越戊辰戦争の新政府軍(西軍)の墓地があります。
 北越戊辰戦争による新政府軍の多くの戦死者は、近隣寺院に埋葬されていましたが、その後、有志により現在の場所に集められ、199人が眠っています。
 新政府軍の参謀代理、時山直八を顕彰する「時山君の碑」には、山県有朋が書いた追悼文が刻まれています。
(参考文献:新潟日報社「戊辰戦争140年中越の記憶」取材班 『戊辰戦争140年中越の記憶』 新潟日報事業社 平成21年7月)

「船岡山西軍墓地」
所在地:小千谷市稲荷町12-12 船岡公園内
交通:小千谷駅前からバス6分、本町西下車で徒歩10分

船岡山西軍墓地の写真です
船岡山西軍墓地

時山君の碑の写真です
時山直八を顕彰する「時山君の碑」

司馬遼太郎『峠』の碑(小千谷市)

 長岡藩軍事総督 河井継之助を主人公とした司馬遼太郎氏の『峠』は、1966年(昭和41年)から1968年(昭和43年)まで『毎日新聞』で連載されました。大ベストセラーとなったこの小説をきっかけに、河井継之助の名は全国に広まりました。
 信濃川に架かる「越の大橋」の西詰、『峠』の舞台を臨む場所に、「『峠』の碑」が建っています。
 「武士の世の終焉にあたって、長岡藩ほどその最後を見事に表現しきった集団はいない」という司馬遼太郎氏の言葉が刻まれています。

「司馬遼太郎『峠』の碑」
所在地:小千谷市三仏生 越の大橋西詰
交通:小千谷駅前からバス10分、妙見神社前下車で徒歩5分

「峠の碑」の写真です
小説『峠』の一節が刻まれています

「峠の碑」の拡大写真です
司馬氏の言葉「『峠のこと』

 

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