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【南魚沼・湯沢の魅力】関興寺(かんこうじ)

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0123408 更新日:2020年7月3日更新

関興寺写真

新潟県南魚沼市(旧南魚沼郡塩沢町)にある臨済宗円覚寺派の寺院「最上山関興寺(さいじょうさんかんこうじ)」についてご紹介します。

600年以上の歴史を持つ越後の古刹

古くは「関興庵」と呼ばれ、応永17年(1410年)、覚翁祖伝(かくおうそでん)和尚※が、高僧の誉れ高き普覚円光(ふかくえんこう)禅師を招いて開山したのが始まりといわれています。
はじめは関山村に禅道場を開き、その後上杉氏の庇護や上田長尾氏の帰依により、信州・佐渡・能登・越中・越後の5カ国に300カ所の寺を支配したと伝えられています。
しかし戦国時代になると、永正9年(1512年)、天正6年(1578年、御館の乱)、文禄3年(1594年)に戦火に巻き込まれ、その都度復興したものの次第に衰退していきました。
慶長5年(1600年)、上杉景勝が出羽国米沢に移封される際、一旦上杉氏とともに米沢に移りました。
寛永6年(1629年)に火災に遭ったことを機に、寛文年間(1661年~1673年)に現在の地に戻り再興し、寛延4年(1751年)に名称を関興寺と改めました。

※初代関東管領、上杉憲顕の子。駿河に生まれ、各地を歴参後、普覚円光禅師に師事し、自らも関興寺の次位となる。

境内の様子

総門

関興寺総門の画像
関興寺の総門

安房勝山藩の酒井家の門として200年以上前に建設され、群馬県箕郷町(現、高崎市)の文化財だったものを、前の持ち主の好意により平成21年に寄付・移築されたものです。
そのため、門の両側には門番の詰め所があるなど、武家屋敷らしい造りになっています。
もともとは、瓦葺きでしたが、南魚沼の降雪状況からトタンに葺き直してあります。

参道の周辺の画像
参道の周辺は青い苔で覆われています

高い木々に囲まれている境内の画像
高い木々に囲まれ、境内に木漏れ日が差していました

関興寺の三門の画像
関興寺の三門。300年以上前に建てられたものが令和元年に建て替えられました

本堂の画像
本堂

本堂の内部の画像
本堂の内部

御本尊の釈迦牟尼佛の画像
御本尊の釈迦牟尼佛

経蔵

経蔵(六角輪蔵)の画像
経蔵(六角輪蔵)

六角輪蔵と呼ばれる一切経が収蔵された回転式の書架をもつ、県内でも数少ない珍しい構造物です。
寛政10年(1798年)に造られたもので、既に建造から200年以上経っているそうです。
内部には1000以上の経文が収蔵されていて、回転させることで功徳を得ることができると言われています。

千手観音像

千手観音の画像
千手観音 (江戸時代)

観音菩薩が千の手を得た姿とされ、千本の手はどのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表しています。
以前、この千手観音は、法堂(はっとう・関興寺の住持が説法をする御堂)の須弥壇(しゅみだん)に祀られていました。
いくつもの顔や沢山の手を持つことから、神秘的であると同時に、一人でも多くの人々を救済しようとする慈悲に満ち溢れており、数ある関興寺仏の中でも、本尊である釈迦牟尼仏についで人々に尊崇され、愛されている仏様の一つです。

関興寺の味噌なめたか

御館の乱の戦火から経文を守った味噌

関興寺の味噌の画像
関興寺の味噌。加護料・700円で分けてもらえます。

上杉謙信の没後、天正6年(1578年)に景勝・景虎二子による家督相続争いによって起きた御館の乱(おたてのらん)では、総門・三門・仏殿・法堂・方丈・禅堂・塔頭7ヶ寺に及ぶ大伽藍は、ことごとく焼失してしまいました。
この火事のなか、上杉氏寄進の大般若経600巻は、燃えないように味噌の桶の中に埋められ、戦火から逃れることができました。
以降、経文を守った味噌の噂が広まり、その御利益から味噌を分けて下さいと関興寺に参拝する人があとを絶たなかったといわれています。
そして、「関興寺にお参りして有難い味噌を頂きましたか?」の問いかけの言葉として「味噌なめたか」という言葉が生まれました。

現在でも関興寺にお参りに行った方は、どなたでも「関興寺味噌」を味わうことができます。

厳しい修行を象徴する関興寺の味噌

”関興寺の味噌なめたか”の看板
関興寺の総門には、「関興寺の味噌なめたか」と大きく書かれてあります。

「関興寺の味噌なめたか」という言葉には、もう一つのいわれがあります。

室町時代の昔から、北陸地方において、臨済宗の関興庵(現在の関興寺)は、曹洞宗の雲洞庵と並び評される「二大禅道場」でした。
当時の両寺には、優秀な人材が多く訪れ、それぞれの寺の修行僧の数は、300人とも400人ともいわれていたそうです。いつの頃からか、「ひとたび禅僧になることを志したならば、雲洞庵や関興庵で修行しなければ一人前ではない」という評判となっていきました。そして、雲洞庵と関興庵、どちらで修行したのかを、修行僧同士で確認し合っているうちに、「雲洞の土ふんだか?関興の味噌なめたか?」という言葉が生まれたということです。
禅寺の生活は非常に枯淡で、修行僧は、衣食住の全てにおいて質素で粗末な環境で過ごしています。しかし、修行を続ける為には、自身の体力を維持する必要があります。そこで関興寺では、昔から修行僧たちの生活の糧として、味噌を自らの修行の一環として作っていました。
生活の糧である味噌を「なめる」ということは、そこで「過ごす」ということであり、雲洞庵の「土を踏んだ」ことと同様、関興寺の「味噌をなめた」ことは、「厳しい修行に耐えた」ということなのです。

関興寺では、坐禅や写経などの体験も行っています。修行を体験しながら関興寺の味噌をなめれば、修行僧の暮らしの一部を垣間見ることができるかもしれません。

体験研修

本堂内「達磨の間」の画像
本堂内「達磨の間」

関興寺では、写経・写仏・坐禅の体験研修も行っています。
これらの体験を実施しているお寺は、県内でも珍しいそうです。
心を落ち着かせ豊かにするため、関興寺を訪れた際は、体験してみてはいかがでしょうか?

※坐禅会は開催日時が限られています。詳しくは関興寺ホームページにてご確認ください。
 
関興寺公式ホームページ<外部リンク>

その他の見どころ

中峰(ちゅうほう)袈裟切りの塔所

中峰袈裟切りの塔所の画像
中峰袈裟切りの塔所

江戸時代の頃、寺に中峰という弟子がいました。
中峰はもともと武家の子供でしたが、幼い頃に母を何者かに殺され、父と2人で仇を探し旅をしていました。しかし、志半ばで父が行き倒れ、子供の頃に関興寺に預けられました。その後も中峰は、寺で修行を積みながら親の仇を討つため、武術の訓練を続けていたそうです。
ある日の夜、裏山で密かに武芸に励んでいた中峰の前に突如、曲者があらわれました。中峰は、それを母の仇と確信し鎖鎌で倒しました。しかし、翌朝その場所には、けさ切りにされた開祖(普覚円光禅師)の墓石が横たわっていました。
中峰は、大変なことをしてしまったと和尚に相談に行きました。和尚は、出家したにも関わらず、未だに親の仇を追っている中峰を、開祖がたしなめたのであろう、と答えました。
以来、心を入れ替えて真面目に修行を積んだ中峰は、その後人々に慕われる立派な僧になったそうです。

臥龍の庭(がりゅうのにわ)

臥龍の庭(がりゅうのにわ)の画像
臥龍の庭(がりゅうのにわ)

本堂の前に、岩をあしらった枯山水の石庭があります。
この庭は、岩を龍に見立てて、龍が寝ている姿を現しています。
このような枯山水の庭園は禅寺の特徴ですが、南魚沼では珍しいものです。

関興寺の池と滝

総門を入ってすぐの右手側に睡蓮が植えられた大きな池があります。
この池は、関興寺の開祖、普覚円光禅師・白崖宝生(びゃくがいほうしょう)和尚に因み「白崖池(びゃくがいいけ)」と呼ばれています。

白崖池には、「登龍の滝(とうりゅうのたき)」という滝が注いでいます。登龍の滝の上は、臥龍の庭(上記参照)を通り、本堂の裏にある「棲龍池(せいりゅういけ)」に繋がっています。棲龍池には「昇龍の滝(しょうりゅうのたき)」が注いでいます。

これらの池と滝は、鯉が滝を登ると龍になるという故事に因んでつくられています。白崖池に棲む鯉が、登龍の滝を登って龍になり、さらに昇龍の滝を登った龍が、天龍や飛龍として空を舞うことで悟りの境地に近づいていく様子を表しています。

白崖池(びゃくがいいけ)の画像
白崖池(びゃくがいいけ)

登龍の滝(とうりゅうのたき)の画像
登龍の滝(とうりゅうのたき)

棲龍の池(せいりゅうのいけ)の画像
棲龍の池(せいりゅうのいけ)

昇龍の滝(しょうりゅうのたき)の画像
昇龍の滝(しょうりゅうのたき)

南方稲荷神社

南方稲荷大明神の画像
南方稲荷大明神

関興寺の境内、裏山の奥に、南方稲荷の神社があります。
御館の乱のおり、景勝軍に300余人を率いて加勢し、勝利へと導いた渡邊藤兵衛と呼ばれる人がいました。しかし、論功行賞の際、渡邊は、八方捜索したにもかかわらず、とうとう見つかりませんでした。
そのとき、稲荷の祠の前に粗末な武具が脱ぎ捨ててありました。人々は、かの武者こそ稲荷権現の化身であったのではないかと噂しました。
景勝公は、祠が城の南に位置することから、公自ら「南方稲荷尊天」と、その名を改め、社殿を建立し篤く尊崇されたといわれ「戦勝祈願・商売繁盛の御利益があるとされています」

南方稲荷の神社に続く参道の画像
南方稲荷の神社に続く参道

南方稲荷神社の画像
南方稲荷神社

十万石の駕籠

十万石の駕籠の画像
十万石の駕籠 (江戸時代 一七九〇年代頃)

一石は十斗、大人一人が一年に食べる米の量の事。
これを兵士たちに与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになる。
つまり石高は戦国大名の財力だけではなく兵力をも意味していました。
この駕籠(かご)は、約二百年以上前、関興寺住職が徳川幕府より十万石の格式を与えられた際に寄進され、江戸城登城の際にも使用されていたものです。
駕籠の中でも、公家や武家が乗るような装飾が施された大名駕籠は、一般的に黒塗であるが関興寺の駕籠は朱色に塗られ、寺紋の五七の桐が刻まれている事から、一目見て関興寺の住職が乗っている駕籠と分かる作りになっています。
身分制度の厳しい江戸時代では、大名の参勤交代の折、十万石に満たない大名は、この駕籠に道を譲ったとの事です。

屋久杉の戸板

屋久杉の戸板の画像
屋久杉の戸板 (江戸時代 一七七〇年代頃)

上段の間の欄間と同じく、屋久島の屋久杉で作られた戸板。
樹齢千年以上の屋久杉を一枚板にし、虎・鶏などが描かれています。
江戸時代安永年間の作と見られ、二〇〇年以上経った現在でも色褪せずに見事に残っています。
この戸板は元々「武者隠しの間」の隠し通路前にあり戸板を開けると、殿様の逃げ道となる仕組みとなっていました。
虎の絵は、豹柄耳無しと、特徴のある作風で、江戸時代では、牝の虎は豹柄であるとされていたため体の模様は豹柄となっています。
また虎に耳が無いのは、控えている近習に対して「殿様と住職の内密な話を聞かなかった事にしなさい。」との意味合いからあえて耳が描かれていません。
江戸時代でも屋久杉は貴重な用材であったため、関興寺でも「上段の間」付近でしか使用されておらず、新潟県下でも数少ない貴重なものです。

江戸長重譲り状

江戸長重譲り状の画像
弘長元年(1261年)に、地頭である江戸長重より五代執権・北條時頼あてに送られた書状。
近年、飢饉が続き(正嘉の飢饉)領地経営が成り立たないため、北條得宗家に領地を返上し、自ら被官となる旨が記されてます。
「前島村」とは、現在の「東京駅周辺」のことであり、現存する文書ではこの譲り状が前島村の初見資料(最古の文書)であるため、東京の歴史を知る上では極めて貴重な中世文書といえます。

太田道灌あて書状

太田道灌あて書状の画像

太田道灌※が、康正2年(1456年)に家督を受け継いだ「享徳の乱」のころ、敵対する古河公方「足利成氏」の有力武将である「小山持政」から出された書状。
上州において、勢力範囲の申し合わせを行っている貴重な文書です。

※太田道灌は、扇ガ谷・上杉家重臣で太田資長のこと。江戸城を築城した。

アクセスなど

  • 所在地:南魚沼市上野267
  • アクセス:関越自動車道塩沢石打ICから車で約5分
         JR上越線石打駅から車で約5分
  • 拝観料:通常300円
  • 拝観時間:午前9時~午後4時
  • 駐車場:普通車15台(大型車可)

問い合わせ先

関興寺 電話025-783-2111

補足事項
掲載内容については正確を期すよう努めていますが、掲載誤りや不十分な点がある場合があります。
ご利用の詳細につきましては直接、施設管理者(上記問い合わせ先)へお問い合わせください。

変更履歴
掲載日:2013年10月
最終更新日:2020年7月2日

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