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信濃川左岸土地改良区を紹介します。
土地改良区は、
- 農業生産を行う上で欠かせない用排水施設の整備・管理や農地の整備を目的として設立された農家の組織です。
- 農地や農業用水は、国土の保全や美しい農村景観など多面的機能を持つ大切な資源であり、次世代に引き継ぐ役割を担っている組織です。
信濃川左岸土地改良区ってどんなところ?
現在、地区面積4,286ヘクタール、組合員4,765人。県下有数の農業地帯を管理する土地改良区です。
管理区域は、小千谷市から旧越路町、旧長岡市、旧三島町、旧与板町に至る信濃川左岸地域で、農地を潤す用水路や洪水から水田被害を守るための排水路などの農業用用排水施設を管理しています。
信濃川や渋海川から頭首工で取水し、用水路を経て長岡地域の大地を潤しています。
信濃川から取水する小千谷頭首工
渋海川から取水する渋海川頭首工
信濃川左岸土地改良区は、どんな歴史があるの?
信濃川左岸土地改良区が設立されて38年が経過しました。
土地改良区は、昭和47年3月に片貝郷、来迎寺郷、渋海郷、深才、日越、三島郡中部、山東、上川西、四ヶ村の9土地改良区が合併し設立されました。
この地域は、江戸時代の中期頃から新田開発が進められるとともに大正13年の大河津分水の竣工により、昭和の初めまでに「江」といわれる川から水田に水を引くための用水路が盛んに開削されました。併せて、信濃川やその支流の渋海川、黒川等を用水源とした小規模な揚水機場による取水口や草堰と言われる簡易な取水施設が数多く設置されました。
しかし、一端洪水ともなるとこれら施設は、跡形もなく無くなり、川底が大きく洗掘され、必要なときに取水が出来なくなるなど、取水にかなりの困難を窮めました。また、各地で「水争い」も起きました。
終戦直後に、食料増産を目的に我が国で第1号の国営かんがい排水事業信濃川左岸地区が、昭和21年11月に着手され、小千谷市旭橋下流に自然取水樋門と渋海川頭首工が新設されました。また、幹線用水路として8路線の新設と改修がなされ、昭和39年に完了。各水田に配水するための付帯県営工事も昭和42年に完成し、用水の安定供給が可能となり有数の穀倉地帯に変化を遂げました。
その後、大型機械の導入により近代的農業を目指した急速な進展や大区画ほ場整備事業の実施により水利形態が変化するとともに、戦後造成された施設の損傷が予想以上に早く、水路トンネルの陥没、水路の老朽化が目立ち始めました。これら状況を放置出来ないことから、昭和54年に左岸国営二期事業に着手し、主要施設が改修され、平成8年3月事業が完成し、現在に至っています。
昭和4年に完成した堺揚水機場(信濃川左岸土地改良区合併30周年記念誌より)
信濃川左岸土地改良区合併30周年記念誌より
どれくらいの施設を管理しているの?
これら信濃川左岸土地改良区が管理する農業施設は、揚水機場55箇所、頭首工3箇所、排水機場5箇所、用排水路延長は、1,576キロメートルに及び、その施設の維持管理に多大な労力・費用を費やしています。それら費用は、組合員等により負担されていますが、この用水による水は、地域の住宅の間を通過する水路で、地域に憩いと潤いを与える施設として利用されています。
これら用水路を流下して、田んぼに水が供給されます。
長岡市親沢周辺を流下する第6号幹線用水路
長岡市堺町周辺を流下する第7号幹線用水路
昭和40年代後半から、ほ場整備が進められた県内でも先進的な農業地域です。
信濃川左岸地域のほ場整備は、整備率85%。
この地域では、昭和49年から現在まで13地区、A=3,539ヘクタールで、機械化による作業体系の確立、用水パイプライン化、営農体系の確立を目的にほ場整備が進められた県内でも先進的な農業地域です。
ほ場整備を実施前の才津地区の様子
大区画に整備された才津地区の様子