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新潟県の前身(ぜんしん)である「越後国(えちごのくに)」の名が書物に登場(とうじょう)するのは、797年にできた「続日本紀(しょくにほんぎ)」です。佐渡(さど)国も越後国とほぼ同じ時期(じき)にできたようです。
江戸(えど)時代には、越後は村上(むらかみ)・新発田(しばた)・長岡(ながおか)・高田(たかだ)といった藩(はん)に分けられました。また、佐渡では金・銀(ぎん)がたくさんとれ、徳川幕府(とくがわばくふ)が直接(ちょくせつ)治(おさ)める地として幕府の財政(ざいせい)をささえました。徳川幕府がたおれると、越後・佐渡は11の藩と越後府(えちごふ)・佐渡県・柏崎(かしわざき)県に分けられました。1871年(明治4年)には藩をなくして県をおくことになり、越後は13県に分けられましたが、県の数が多すぎたので、新潟県、柏崎県、相川(あいかわ)県の3つにまとめられました。その後1873年(明治6年)に柏崎県が、1876年(明治9年)に相川県が新潟県に入り、1886年(明治19年)に東蒲原郡(かんばらぐん)が加(くわ)わって現在の新潟県の姿(すがた)になりました。このときの人口(じんこう)は約163万人で、全国1位でした。
越後(えちご)守護(しゅご)長尾為景(ながおためかげ)の子で、19歳(さい)で越後守護代(だい)となり、1561年関東(かんとう)管領(かんれい)上杉家を相続(そうぞく)しました。謙信はいくさの天才(てんさい)で、しばしば兵(へい)を信濃(しなの)(現在(げんざい)の長野(ながの)県)や関東に進めました。特に武田信玄(たけだしんげん)との川中島(かわなかじま)の合戦(かっせん)は有名(ゆうめい)です。
謙信は越後をまとめた後、上野(こうずけ)(群馬(ぐんま)県)、越中(えっちゅう)(富山(とやま)県)、能登(のと)(石川県北部)に及(およ)ぶ広大(こうだい)な領土(りょうど)を支配(しはい)しましたが、1578年越後春日山城(えちごかすがやまじょう)(現在の上越市(じょうえつし))で亡(な)くなりました。
三島郡(さんとうぐん)出雲崎(いずもざき)町の名主(なぬし)、橘屋山本以南(たちばなややまもといなん)の長男(ちょうなん)として生まれましたが、18歳の時出家(しゅっけ)して諸国(しょこく)を修行(しゅぎょう)し、39歳でふるさとに戻(もど)りました。
以後、寺泊(てらどまり)付近(ふきん)で托鉢(たくはつ)の生活を続(つづ)け、49歳で国上山(くがみやま)の五合庵(ごごうあん)(現在の分水町(ぶんすいまち))に落(お)ち着きました。
良寛は托鉢のあいまに詩歌(しいか)・書(しょ)をつくり、多くの文化人や農民(のうみん)たちと交(まじ)わり、子どもたちともよく遊(あそ)びました。
良寛の芸術(げいじゅつ)や人間性(にんげんせい)は、今でも多くの人々から愛(あい)されています。
歌人(かじん)、書家(しょか)、美術史家(びじゅつしか)として知られる会津八一は、明治14年新潟市古町(ふるまち)の料亭(りょうてい)、会津屋(あいづや)で生まれました。
昭和6年に早稲田(わせだ)大学文学部教授(きょうじゅ)時代に独力(どくりょく)で集めた「東洋美術資料陳列室(とうようびじゅつしりょうちんれつしつ)」を早稲田大学に作りましたが、同大学でとても大切にされています。
会津八一は「南京新唱(なんきんしんじょう)」「山光集(さんこうしゅう)」「会津八一全歌集(かしゅう)」など多くのすぐれた歌集を刊行(かんこう)しています。その万葉調(まんようちょう)の音楽的な朗唱和歌(ろうしょうわか)や、独特(どくとく)の墨筆(ぼくひつ)は高く評価(ひょうか)されています。