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コシヒカリのエピソード 3 ~新潟県・全国への定着~

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0055721 更新日:2019年8月30日更新

日本一うまいコメづくりに向けた取組

 昭和の初めまでの「新潟米」は鳥ですらまたいで通る「鳥またぎ米」と言われていました。農林1号が育成された昭和6年以降、新潟のコメは食味の良い品種が中心となり、徐々に新潟米の評価は回復していきましたが、戦中・戦後の食糧増産時代を経るなかで新潟米への評価は再び低下し、昭和30年代の評価は極めて低いものになっていました。
 当時の新潟県知事は、「日本一うまいコメづくり」に取り組むよう指示し、昭和37年、県を旗振り役に「日本一うまいコメづくり運動」を開始しました。運動の中では、コシヒカリなど食味の良い品種への切り替えや、倒さない稲づくり、「新潟米」と描かれた赤票箋(あかひょうせん)をコシヒカリなどの1等米に付ける品質保証に取り組みました。その結果、コシヒカリの作付面積は、昭和38年には約2万ヘクタールまで拡大しました。
 しかし、コシヒカリは、倒れるのを防ぐために肥料を数回に分けて与えるなどの手間がかかり栽培が難しいため、昭和39年の作付面積は減少に転じました。さらに昭和35年から41年にかけて全国的にコメ不足になったこともあり、新潟県は、昭和42年に「米100万トン達成運動」を展開し、味はよいが収穫量が少ないコシヒカリ系品種から多収穫の品種に切り替えを進め、コシヒカリの栽培面積は急激に低下してしまいました。

食味・品質重視の時代がコシヒカリ普及を後押し

 昭和35年からのコメ不足は一時的なもので、昭和42年頃からはコメ余りとなり、国は昭和44年に「自主流通米制度」(※1)や「生産調整」(※2)を開始しました。自主流通米制度下では、おいしい品種や品質の良い米を作る産地の米は、政府米(※3)に比べ高値で取引されるようになり、消費者も品種や産地を選んで米を購入するようになりました。「食味」と「品質」に対する考え方が劇的に変化したことで、新潟県も多収穫からコシヒカリを中心とした良質米生産を推進する方針に再変更しました。
 自主流通米市場の需要に応えるには、供給量を確保する必要がありました。一時1万3千ヘクタールまで低下したコシヒカリの作付面積は、昭和45年に2万ヘクタールに回復しましたが、さらに面積を増やすためには、難しいコシヒカリの栽培技術を県内の農業者に普及することが必要でした。

 ※1 一部の良質なコメに限定して、政府を介さず、直接卸業者などへ販売することを認めた制度。自主流通米の価格は自由に決めることができました。
 ※2 コメの供給過剰を防ぐことを目的に生産量を抑制すること。一般的に「減反」と言われています。
 ※3 政府が農業者から買い入れて管理するコメ。食糧管理制度の下では、価格は政府が決定していました。

誰もが知る「新潟産コシヒカリ」として定着

 昭和49年、北陸4県共同のプロジェクト「良質米生産の早植え・安定機械化制御技術の開発研究」がスタートし、國武氏を主査に、9年間にわたりコシヒカリの栽培技術について研究が進められました。
 研究プロジェクトの成果は、コシヒカリ栽培のポイントを時期ごとに整理した「コシヒカリ栽培暦(さいばいごよみ)」として取りまとめられました。ここでは、これまでの大きな課題であった倒伏させないための追加施肥の時期について、「出穂18日前と10日前の2回」という目安も示されました。また、「カラースケール」(※4)をいち早く導入・実用化したことは、農業者が葉の色から稲の栄養状態を正確に見極め、適切な量の肥料を与えることを可能とし、コシヒカリの安定生産に大きく寄与しました。
 その後、自主流通米への各種助成の見直し等もコシヒカリ拡大の追い風となり、昭和55年の作付面積は5万ヘクタールを超えました。加えて、新潟県経済連(現:JA全農にいがた県本部)が関東で行った地域や客層を限定した販売宣伝活動は、新潟コシヒカリの商品イメージを一気に押し上げました。
 新潟コシヒカリは農家、卸業者、消費者全てがその名を知るブランド米として全国に定着したのです。

 國武正彦氏 短歌
 『コシヒカリは不死鳥のごと蘇り村人たちは泣きて頷く』
 『農林一号越路早生コシヒカリと継ぎ継ぎて米王国と成りぬ新潟』

※4 稲の葉の色を調査するための道具

昭和56年「新潟米」生産50周年記念大会表彰写真

写真)昭和56年「新潟米」生産50周年記念大会表彰写真(國武正彦氏提供)

前列右から、國武正彦氏、石墨慶一郎氏、杉谷文之氏、君健男知事(当時)

新潟米の振興やコシヒカリの定着には、多くの関係者の努力がありました。

魚沼コシヒカリ発祥の地の石碑の写真

写真)南魚沼市(旧六日町)宇津野新田に建立されている「魚沼コシヒカリ発祥の地」の石碑(新潟県撮影)

コシヒカリの誕生には県や農業団体などのほか、農業者も大きな役割を果たしました。
南魚沼市の農家は「越南17号」の現地試験に積極的に携わり、一般作付け後は一貫してコシヒカリの栽培を続けていきました。
こうした功績をたたえて平成10年に石碑が建てられました。

環境に配慮した農業をより一層進めるために

 昭和50年代の米生産は、51年の大冷害をはじめ、54年から3年間いもち病の発生により作柄が低下するなど、米の主産県として「消費者に対し良質米を安定的に供給する」責務を果たすことが大きな課題となっていました。
 それまでの栽培技術で十分防げなかったいもち病の発生については、予防薬剤開発の進展により抑制することが可能になり、特に問題となっていた中山間地でも、安定してコシヒカリを生産することが可能になりました。
 また、コシヒカリが誕生した頃からの「いもち病に弱い」という欠点を克服できれば農薬使用量の減少にもつながることから、新潟県は昭和61年からいもち病に強い性質を持つコシヒカリ(コシヒカリBL)の育成・開発を開始しました。
 コシヒカリBLは平成17年に県内に一斉導入され、24年で導入から8年目を迎えています。コシヒカリBLの導入により、水稲における特別栽培農産物等の面積は、平成23年度で73,000haを超え、県内作付けの約6割を占めるに至っています。

参考文献

  • 新潟県・「新潟米」を軸とした複合営農推進運動委員会『「新潟米」50年のあゆみ』新潟県発行
  • 新潟県農業試験場 『新潟県農業試験場百年史』新潟県農業試験場発行
  • 日本作物学会北陸支部・北陸育種談話会『コシヒカリ』農山漁村文化協会発行
  • 新潟日報夕刊『ひと 賛歌 元県農業試験場長 国武 正彦さん コメ王国築いた戦略家』(2009年6月29日から7月15日)
  • NHK「プロジェクトX」制作班『プロジェクトX挑戦者たち(5) そして風が吹いた』日本放送出版協会発行
  • 新潟県南魚沼地域振興局農林振興部『南魚沼コシヒカリ誕生秘話』南魚沼地域振興局農林振興部発行
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