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水郷亀田郷のあゆみ~泥田農業からの脱出~
昭和20年代以前
(左:芦沼での困難な農作業、右:人力による足踏み水車)
機械力がない頃、胸まで浸かる農作業や終わりの見えない排水のための水車踏みが黙々と続けられていました。
昭和20~30年代
(左:牛馬による田起こし、右:集落で協力して田植え)
待望の国営事業による栗ノ木排水機場が昭和23年に完成したことにより鳥屋野潟の水位が約90cmも下がり、田んぼでは農耕牛馬の利用が可能となりました。
昭和30~40年代
(左:耕運機の登場、右:初代 親松排水機場)
昭和39年の新潟地震で機能低下した栗ノ木排水機場に代わり、昭和43年には親松排水機場が設置され排水能力も増強されたことから、ほ場の整備や営農の機械化が進みました。
現在
(左:大型コンバインによる稲刈り、右:転作田で大豆を栽培)
基盤整備の進展に対応して営農の更なる機械化や多角化が進み、都市近郊農業地帯として今後一層の発展が期待されています。