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買若梅(マイ・ロアメイ)さんの佐渡レポートvol.5

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0056383 更新日:2019年3月29日更新

 中国出身、佐渡在住の買若梅(マイ・ロアメイ)さんによる佐渡レポートを掲載しています。
 第5回目のテーマは「佐渡金山」です。

佐渡金山

佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」の画像
佐渡金山のシンボル「道遊の割戸」

 金銀は富の象徴であり、人間の「憧れと欲望の焦点」という存在です。金銀を得るために人々は古来からいろいろな手段を尽くしてきました。この金銀はどのようにして採られるのか想像したことがありますか。
 日本海に浮かぶ佐渡島にはおよそ400年に渡って掘り続けられた金山があります。先日、わたしは金山というところはどんなところなのか好奇心をもって行きました。

佐渡金山の宋太夫坑の画像
佐渡金山の宋太夫坑

 佐渡金山は相川というところにあります。相川の面積は192平方キロメートルです。金山の鉱脈は、東西3000m、南北600m、深さ800mの範囲に分布しています。相川の手前で一つのトンネルを通ります。このトンネルは大変長く、遥か遠くの昔に行くタイムマシンのように感じます。

佐渡相川の京町の画像
佐渡相川の京町

 相川は金鉱脈が発見される前はわずか十数戸の「羽田村」という小さな集落でした。1601年、最初の鉱脈が発見されました。しかも日本最大の金鉱脈だということで全国に知れ渡りました。
 ここで産出された金は当時の幕府の有力な財政基盤となりました。ゴールドラッシュの波に乗り、いろんな商人、労働者達がどっと佐渡に押し寄せました。金山の最盛期には相川の人口は4~5万人に達したといいますから、小さな村はとても賑やかな鉱山都市に生まれ変わったわけです。

無宿人の画像
無宿人

 しかし、華やかな繁栄の陰に悲惨な運命の人達がいました。佐渡金山は標高が低いので、立て坑が海水面以下になると大量の地下水が湧き上がります。その地下水を排出する作業を「水替え」と言います。これは大変な肉体労働で多くの人手が必要です。当時、幕府は社会治安を守るためという口実で、江戸、大阪、長崎などから、家もなくさすらっていた人達を捕まえて来てこれに充てました。このような人達を「無宿人」と言います。

無宿人のお墓の画像
無宿人のお墓

 坑内では多くの人が働いています。地下水を排出しなければ坑内は水があふれ、採掘作業はできません。金山の最も深いところでは数百メートルにも達します。その深いところから地下水を汲み上げるのです。ツルベで汲み上げ、回転式の樋で巻き上げ、最後に外へ排出するという人海戦術の作業を夜昼休むことなく続けなければなりません。このような坑道内はまさに夜昼のない地獄のようなものです。
 江戸幕府末期の100年間1000人以上の無宿人」が佐渡に送られたそうです。江戸から送られた人が一番多いので佐渡奉行所では彼らを「江戸水替え」と総称していました。劣悪な環境のもとで酷使された彼らの寿命はとても短かったといいます。ほとんどは故郷に帰ることなくこの地で命を落としてしまいました。

佐渡金山の変電所跡と石積アーチ橋の画像
佐渡金山の変電所跡と石積アーチ橋

 1896年、明治政府は佐渡金山の経営権を当時の三菱合資会社に譲りました。それから三菱鉱業(現在の三菱マテリアル)に経営権が移りました。佐渡金山は初期の人手による採掘の時代、後に火薬や機械が使われた時代を通して388年もの歴史があります。
 1989年、鉱脈が枯れて閉山となるまでに78トンの黄金と2330トンの銀を産出したとあります。また坑道の総延長はなんと佐渡から東京までの距離に相当するといわれます。

 

貯鉱舎の画像
貯鉱舎

 あれこれ考えているうちに私は佐渡金山に到着しました。現在、観光客が入れるのは江戸時代に掘られた「宗太夫坑」です。私は他の観光客と一緒に入りました。
 坑内では動く人形が使われていて、当時の採掘場面が再現されています。中は薄暗くてなんともいえない神秘さが漂い、肌寒く感じられます。一生懸命に周りの環境に慣れるように目を凝らしていると遠くから不思議な物音が聞こえてきました。私は少しずつそちらに近づいて行きました。

水替人足と無宿人の画像
水替人足と無宿人

 すると本で見たのと同じ光景が目の前に展開しました。必死に水を汲んでいる場面、金鉱石を採掘している場面が再現してあります。「狸穴」とよばれる、人一人がやっと通れるだけの狭い坑道もあります。不思議な物音は「水替え人」の嘆きの声でした。
 展示ホールに行くと選鉱、精錬、幕府時代の佐渡小判などの当時の様子が展示されていました。そこで分かったことは、金山の最盛期には原石1トンの中に1kgもの黄金が含まれていたといい、江戸時代260年間に41トンの黄金が産出されたということです。

山留大工の画像
山留大工

 私たちの参観できる坑道はそれほど長いとはいえませんが、このようなところで働かされた無宿人達にとっては正に生き地獄だったことでしょう。まったく日の目を見ることのない世界で夢も希望も失ったことでしょう。私は、坑道を出たあともずっと悲しいような寂しいような気持ちが続きました。金山の輝かしい歴史に驚嘆するとともに無宿人たちの運命を思うと胸がいっぱいになりました。

狸穴の画像
狸穴

 金山はほんとうに神秘的なところです。私は「鉱山の男」の様子をもっと知りたくなりました。すると、今も二人の方がこの近くに住んでいるというのです。私は二人を訪ねることにしました。はじめに川口武雄(83)さんという方を訪ねました。私は、川口さんにいろいろなことを聞きました。

宋太夫坑の画像
宋太夫坑

 「わたしが佐渡に戻ったのは終戦後だ。それまではトラックやトラクターの部品を作る工場で働いていた。佐渡金山が家に近いから鉱山で働いたわけだ。1950年のころ、坑道の仕事に配属されてね。実質、働いたのは3年くらいだったかなあ。まだ25歳だったよ。主に木材で立て坑の「山留め」の枠を作る大工仕事だ。壁が崩れないようにするためだ。そのほか坑道の内外で運搬の仕事もしたよ。電気軌道車を使って1トンぐらいの鉱石の乗った車両を1回に10台もつないで・・・いちどに10トンぐらいを牽引したものだ。つらい仕事だったが仕事だから文句も言えない。1952年、鉱山の経営が悪くなってその時、多くの人と一緒にリストラされたわけだ。」

川口武雄さんの画像
川口武雄さん

 「幸いなことに関連の採石場でまた働いた。そこでは1986年、退職するまでずっと働いた。」
「この大工町には盛んだったころは2500人ぐらいの人が住んでいた。鉱山経営の縮小によってだんだんここに住む人も減ってきた。今ではわずか6戸で、20人ぐらいかなあ。とても寂しくなったよ。」
「昔は、仕事はきつかったけれど、仕事のあと、家族と一緒に映画を見に行ったり娯楽クラブに行ったりと、のんびり暮らしていたよ。今振り返ってみると思いでは尽きないよ。閉山になることはやむをえないことだが、なんともつらいことだ。」
金山の麓に住んで、金山とともに過ごしてきた川口さんには、金山に対して並々ならぬ思いがあるのでしょう。

梶川弥平次さんの画像
梶川弥平次さん

 川口さんの家をあとにして、私はもう一人の梶川弥平次(77)さんという方を訪ねました。彼は18歳の時、鉱山で働いたそうです。はじめのころは鍛冶屋さんの見習いをしていて鍬やナタを作っていました。やはり1952年の鉱山経営の不振の時にリストラされて、やむを得ず他の地方に行ってトンネル工事の仕事をしました。その時、掘削技術を身につけたそうです。

昔鉱石を運ぶ相川の主要港「大間港」の画像
昔鉱石を運ぶ相川の主要港「大間港」

 トンネル工事が終わって、梶川さんは佐渡へ戻ってきました。暮らしのために出稼ぎに行ったり農業をしたりしました。1965年、鉱山で品質のよい鉱脈が見つかったということで、一時、鉱山への「夢よ再び」の希望が高まりました。その時の人手需要から掘削技術のある梶川さんは、再び鉱山で働くことになりました。
 残念なことに、この時の金鉱の量はそれほど多くなく、何年もたたないうちに鉱脈は枯れてしまいました。このように梶川さんは1989年、鉱山が閉じられるまでに何回か鉱山に出入りしました。当時、金山の仕事に就くことはとても幸運なことだと思っていたそうです。

佐渡金山の井上信博支配人さんを訪ねましたの画像
佐渡金山の井上信博支配人さんを訪ねました。

 金山で多くの苦楽を経験されたお二人には昔の懐かしい思い出が自然と湧き出てくるのでしょう。金山から受けた数々のことがらに感謝しているお二人の気持ちが私にも伝わってきました。

無宿人のお墓の画像
無宿人のお墓

 その後、私は川口老人に教えられたとおり、小道を歩いて無宿人のお墓へ行きました。そこは川口さんの家の後ろの山です。周りは深閑として高い樹木がそびえています。無宿人という文字のとおり、ここに葬られた人達は何も持っていないのですね。自分の生存する権利さえ無かったのでしょう。もしも来世というものがあるなら、彼らが「新鮮で自由な空気」を胸いっぱいに吸い込んで、恋しい故郷に戻れることを願わずにはいられません。

いまの佐渡の画像
いまの佐渡

 これで私の金山訪問の一日は終わりました。だんだん遠くなる金山を眺めると、美しい緑の山並みがどっしりとしています。静かで落ち着いた昔に戻ったよと語りかけているようです。これこそ金山の本来の自然の姿でしょう。

日本語翻訳: 雑賀三郎
参考文献: 磯部欣三「佐渡歴史散歩」


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