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中国出身、佐渡在住の買若梅(マイ・ロアメイ)さんによる佐渡レポートを掲載しています。
第3回目のテーマは「佐渡の農業」です。
田植え 撮影:磯野保
中国には「一年の計は春にあり。」という諺があります。農業にとって春は、最も大切なスタートの季節です。毎年ゴールデンウィークのころになると、農家の人たちの田植えをしている姿が、あちらこちらで見られます。同じ「田植え」と言っても中国とは違います。田植えの様子を見ていると、日本の農業生産技術には、本当に驚かされます。田植えの時には、箱に入った稲の苗を自家用の小型トラックにずっしりと積んで田んぼに運んで行くのです。それに、こちらの農家では普通、稲の苗は自分の家で作ります。苗作りは機械で行います。
まず、箱の中に土を敷いて種をまきます。土入れ→種まき→散水→覆土の仕事は、流れ作業のラインのように機械で行います。しかも、その作業はとても速いのです。種まきは、あっというまに、とてもきれいに出来上がります。その後、育苗器に入れて温度の調節・管理をします。発芽の後、稚苗が少し緑色に変化してくると、こんどはビニールハウスに移して苗を育てます。
本間一雄さん(右端 平成3年 寧夏銀川)
この苗作りの仕事は大体、3月末から4月の中旬ころに行います。苗が伸びる間、どのようにして待つでしょうか。苗が「大地の家」に帰って、丈夫に育つために人々は水田を整えます。先ず、田んぼに水を張り、肥料を施し、機械を使って耕します。たちまち地ならしができます。その後、きれいになった田んぼに田植えをするのです。
水田はきれいに区画されています。佐渡の水田は地形によって大小さまざまですが、国仲平野では一般に4月5日ムーから15ムーぐらいの広さです。(15ムー=1ha)
農家の人々は4条植えや、さらに大きな6条植えの「田植え機械」に乗って運転をし、田植えをします。たとえば7月5日ムーの田を6条植えの機械で田植えをするとしたら、2時間くらいで終わります。目の前の耕地が、あっという間に緑になるのです。これで苗は「ふるさとの大地」に帰り、「自分の家」に定着します。田植えの終わったあとの水田を見ていると、苗たちが人々に「ご苦労さん・ありがとう!」と言っているように感じられます。
苗を運ぶ 撮影:磯野保
佐渡では、田んぼの仕事は一般に1人か2人でします。その人もふだんは別の職場で働いていて、勤めから帰ったあとや会社が休みの日に農業をする人が多く、専業農家はとても少ないのです。今の日本では農業の収入だけで生活を維持するのは易しいことではないようです。しかし、機械化が進み、労働時間が短縮され、力仕事が少なくなって、人々は個人の生活を充実させたり、社会的な活動に力を入れることができます。
佐渡農業の昔(昭和31年新穂村競犂会、佐渡農協新穂支店提供)
佐渡市の農林水産の資料によれば、佐渡の総面積は85,510haで耕地面積は11,400ha(13%)、とあります。さらに細かく見ると、水田の占める割合は11%、畑が2%となっています。佐渡の農家戸数は6,360戸で、全体の26%です。新潟県の農家の戸数は全体の9%というから、これに比べればやはり高い数値であり、佐渡は農業を主な産業とする地域だということができます。
佐渡ではコシヒカリという銘柄の米が多く作られており、佐渡はコシヒカリの主要産地です。2005年の資料によればコシヒカリの生産高は32,000トン。この年の日本全国の米価入札では第2位を占める高い人気があります。コシヒカリはたいへん美味しいお米で、日本全国で高い人気があります。
現在、日本の米の生産は、生産量を多くすることよりも「高品質でおいしい米」の生産に力が入れられています。佐渡においては米の生産のほか、いろいろな果物・蔬菜が生産されています。中でも「おけさ柿」はことに有名です。また、酪農・牧畜業も行われています。
佐渡農協銀川の旅
日本の農業が今日までに発展してくるまでには、いろいろ厳しく困難な時代をたどってきた歴史があります。農民たちは貧しかったのです。第二次大戦後の連合国の政策により日本の社会は大きく変化をしました。農業の面においては小作農が自作農になるなど、一連の農地改革が今日の農業の礎になったといいます。
日本の農業協同組合はそのころからの長い歴史があります。農協というのは、農民がもとになって作られている組合です。農協は大きく分けると(1)営農指導(2)信用(3)販売・購買(4)共済・農村文化・福利厚生等の事業を進めています。農協の存在は農民や農村の生活向上に絶大な影響を与えました。佐渡ではいま、佐渡農協と羽茂農協の二つがあります。
佐渡農業の昔 重い肥やしたご 磯野保所蔵資料
佐渡の農業の話をするとき、わたしは是非、この方の話を中国の皆さんにしたいです。お名前は本間一雄さんといいます。佐渡では広く人々に知られている方です。本間さんは1954年に農協の理事に、1966年に農協の組合長になられ、長い間、組合長をされた方です。本間さんの「生涯の情熱の焦点」は、ただ一つ「農業」だといいます。
1987年、本間さんの友人の紹介により、中国の寧夏回族自治区畜牧局と佐渡農協の交流を開始されました。1991年、佐渡から寧夏に視察団を送り、寧夏の農業を振興するため、1992年から佐渡農協は寧夏からの研修生を受け入れすることになり、1997年に研修生の受け入れ事業が終わるまで、30名の研修生を受け入れました。寧夏のために優秀な農業技術員を育てることが出来たのです。
昨年まで、ほとんど毎年本間さんと佐渡農協旅行団は寧夏・銀川市を訪れ、銀川市政府の熱烈な歓迎を受けました。本間さんは農業と同じように中国が好きなんです。中国に対する心と農業に対する心が深いところで結ばれているのでしょう。
撮影:磯野保
佐渡に来て農業技術を研修し、多くのことを体験をした研修生たちは決して佐渡のことや指導に当たられた先生方のことを忘れないと思います。交流の成果は直ちに現れるものではないけれども、いつか、佐渡と先生方に報いる日が来ることを信じています。
わたしは本間さんにどうしてこのように農業について情熱がわいて来るのですかと尋ねたことがあります。本間さんは「もともと、わたしは農家の生まれでね。農業は人間の生存のモトで、命の産業とも言える。草花や樹木の仕事は人の心をなごやかにする心の産業と言える。大自然を愛し、安心して食べられる食糧を生産したい。それは、生産者自身のためであり、消費者のためである。農業や農協の仕事を通して 人間の「共同・協力」の大切さを分かってもらいたい。」とお話をされました。中国には民以食為本。(=人は食をもって本とする。)という言葉があります。時代や社会がどんなに変わろうとも農業は人が生きていく上で大切な産業であると、わたしは深く考えさせられました。
いま佐渡の水田では、稲がすくすくと伸びています。国仲平野は緑一色で、まるできれいな緑色の絨毯を敷いたように見事です。
日本語翻訳: 雑賀三郎
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