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コシヒカリのエピソード 1 ~交配から系統の育成まで~
戦時下の混乱の中、コシヒカリの両親を交配
コシヒカリの両親の掛け合わせ(交配)は、昭和19年、戦時下の混乱の中、新潟県農事試験場(現:新潟県農業総合研究所)(※1)で高橋浩之主任技師らにより行われました。
交配には、いもち病に強く、収穫期の籾の色が良い「農林22号」(昭和18年兵庫県農試育成)と、戦前の主力品種であり、収量が多く、品質と食味が良かった「農林1号」(昭和6年新潟県農試育成)が選ばれ、両方の長所を併せ持つ品種の育成を目的に行われました。
交配により得られた種子(雑種第1代)は、翌年昭和20年に栽培される予定でしたが、職員の出征等による人手不足のため栽培できず、育成材料を保存することとなりました。幸い材料は戦火をまぬがれ、昭和21年に雑種第1代の栽培が行われ、選抜が進められました。
※1 新潟県農事試験場は、当時、農林省から水稲の新品種を育成する試験地として指定されていました。
写真)農林1号を育成した並河成資(なみかわせいし)氏の銅像(新潟県撮影)
コシヒカリの親となった「農林1号」は新潟県農事試験場で育成されました。
引き継ぎ先では、地震被害を奇跡的に回避
昭和23年、農林省直轄の長岡農事改良実験所(※2)が選抜した65株のうち、20株が福井農事改良実験所に引き継がれ、育成が続けられました。
しかし、その年の6月28日、福井県はマグニチュード7.1の地震に見舞われます。福井農事改良実験所の試験田の多くで、液状化や用水路破壊の影響により試験の継続が困難となる中、長岡農事改良実験所から引き継がれた20株は、幸運にも被害を免れました。
※2 新潟県農事試験場が指定を受けていた育成試験地は、昭和22年、長岡農事改良実験所に改組され、農林省の直轄となりました。
食味・品質はよいものの、栽培面で欠点のあったコシヒカリ
地震被害を免れた20株からは、その後の選抜により「越南17号」(後のコシヒカリ)のほか、「越南14号」(後のホウネンワセ)などの系統も育成されています。
「越南14号」は、穂数がやや多く、収穫期の籾の色と食味・品質が良く、かつ、いもち病にも強い特徴を持っていました。一方の「越南17号」は、食味や品質は良いものの、稈長(かんちょう:稲の丈の長さ)が長くて倒れやすく、いもち病に弱いという欠点があり、育成した石墨慶一郎氏は、捨てようかと迷いながらも、地力の劣る地帯で活用できるのではと考え、全国の試験場に試作を依頼しました。
石墨氏は、「もしあの時諸特性の一段と優れた越南14号の育成に有頂天になっていたら、今日のコシヒカリは存在しなかっただろう」(日本作物学会北陸支部・北陸育種談話会『コシヒカリ』農山漁村文化協会発行より)と語っています。
参考文献
- 新潟県・「新潟米」を軸とした複合営農推進運動委員会『「新潟米」50年のあゆみ』新潟県発行
- 新潟県農業試験場『新潟県農業試験場百年史』新潟県農業試験場発行
- 日本作物学会北陸支部・北陸育種談話会『コシヒカリ』農山漁村文化協会発行
- 新潟日報夕刊『ひと 賛歌 元県農業試験場長 国武 正彦さん コメ王国築いた戦略家』(2009年6月29日から7月15日)
- NHK「プロジェクトX」制作班『プロジェクトX挑戦者たち(5)そして風が吹いた』日本放送出版協会発行
- 新潟県南魚沼地域振興局農林振興部『南魚沼コシヒカリ誕生秘話』南魚沼地域振興局農林振興部発行