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中越大震災座談会 ~復興への道のり~

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0055510 更新日:2019年3月29日更新

座談会 ~復興への道のり~

開催日
 平成22年3月18日(木曜日)
会場
 農家民宿 百姓や 三太夫(長岡市山古志虫亀)
参加者
 長島久子 長岡市山古志虫亀(農家民宿・百姓や三太夫女将)
 片岡朋子 小千谷市小栗山(魚沼棚田倶楽部)
 阿部恒雄 長岡市川口武道窪(グループファーム武道窪代表)
 廣田嘉夫 長岡市(旧栃尾市)松尾(農業)
 宮里圭一 新潟県農地部農地建設課長(コーディネーター役)

囲炉裏を囲んでの画像
囲炉裏を囲んで

宮里農地建設課長の画像
宮里農地建設課長

宮里) 今日はお忙しいところ集まっていただき、ありがとうございます。中越大震災が起きてから5年が経過しましたが、よその人たちに地震が起きたときの参考にしてもらうこと、義援金や支援をいただいたことへの感謝という意味で、冊子を作って配布することを考えていますが、その冊子に載せる記事として座談会を企画しました。わたし達に何が出来るか、今までやってきたことでよかったこと、足りなかったことなどについて話をしたいと考えています。
 はじめに自己紹介と地震の時の状況、次にその後の5年間やってきたこと、そしてこれからやっていきたいこと、希望、課題、自治体への要望など、大きく3つのことについてお聞きしたいと思います。

自己紹介~中越大震災との関わり~

長島久子さんの画像
長島久子さん

片岡朋子さんの画像
片岡朋子さん

宮里) 農地建設課では農地農業用施設の災害復旧事業をやっています。地震当時も同じ課で、課長補佐をやっていました。当時はとてもバタバタしていて、現場へはじめていったのは12月20日過ぎでした。国とのやりとりなどばかりで、なかなか現場に来られませんでした。私どもの仕事は復旧がメインで、それが終わると営農などが始まるわけですが、私たちは営農に直接関わることはないので、その辺りの話をお聞きしたいと考えています。

長島) 私は地震の前から民宿をやっていました。季節旅館としてやっていましたが、地震の前に規制緩和により農家民宿が年間をとおして営業できることになり、地震の年に許可を取りました。ここに帰ってきて丸2年。仮設にいるときに普及センター、市、中央青果、農協、支所などといっしょに「山古志畑の学校」をはじめました。関原で土地を借りて長岡野菜(山古志へ帰っても出荷できるもの)を作りました。災害復旧事業では原形復旧が原則でした。この集落には養鯉池や田んぼばかりで、帰っても畑がありません。何か矛盾していると思っていました。県の部長が視察に来たときに、自宅に帰っても畑がないので、原形復旧を考え直してくれないか(養鯉池を畑にできないか)と言いました。しかし、最終的にはだめでした。結局自分で畑作りをやった(復旧した田んぼや養鯉池を畑に変えた)のです。

宮里) 被災した田や養鯉池を畑にできるのではないかとのことでしたが、災害の基本は元に戻すことで、だから補助率も高くなっているのです。しかし、生活を元に戻すといううえで、そのようなことも検討して行かなくてはならないと思います。
片岡) 震災当時は独身で、地元で種屋をやっていました。農業はやったことがなく農家、農業をやるおじさんたちにあこがれていましたが、何もできずにいました。若い人にその良さを分かってほしいと思っていました。いつか自分もそういう生活ができたら・・・と夢を抱いていたら地震が起きました。そうしたら、毎日田んぼや畑にいたおじいちゃん、おばあちゃんが全くいなくなったのです。その風景を見て愕然としました。みんなどうしているのだろうと心配でした。とにかく何か自分のできることをしようとボランティアを始めました。がむしゃらでした。
 そんな中、12月にボランティアセンターが閉鎖され、切ない気持ちになりました。町内全体に避難勧告の出された東山では、春から復旧だというのにボランティアセンターが閉まりました。東山で知り合いになったばかりの人に、何かできないかと声をかけたら、その人の町内を元気にするためにがんばろうと言われました。その人が今の旦那になりました。そこで農村の現状を初めて聞かされ、あまりにも大きな課題があることを知ったのです。しかし、逆に魅力を感じ、すごい価値を見いだすことができました。町場の若い人が同じように価値を認めてくれたことで、それが喜びとなり、何かしなければと思いました。何か集落の中と外をつなげる活動が出来ないかということで今の活動を始めました。
阿部) 私は川口町の役場に勤めており、住んでいるのは震央にいちばん近い武道窪。地震の時は家もつぶれ、90才過ぎの祖母が家の下敷きになり、それをみんなで助けました。本当によく生きていたなぁという感じでした。私たちの田んぼは信濃川から水を引いており、1反あたり2.4万円の負担で作っています。作業小屋などほとんどが壊れてしまい、このままではみんな農業を辞めてしまうのではないかと思っていました。面積が平均0.5ヘクタールしかなく、辞めても生活に支障はなかったのです。いつでもやめられる状況でした。しかし、やめてしまったら元に戻すことはできないので、続けることにしました。何とかしなければということで集落営農を始めることにしたのですが、その話をいつ言い出そうかと悩んでいました。みな家が壊れてしまって農業をやるどころではなく、とても言い出しづらかったのです。今は基金事業等で順調にいっていますが、これから先どうやっていったらいいか考えていかなければなりません。
 現在作付けしているのが全部で20戸、8ha。集落全体では12ヘクタールです。3枚の田を1枚にしてやっと1反の田んぼを作ったほど。手間暇かけてやっています。
廣田) 私は長岡市松尾に住んでいます。松尾地区の田復旧の換地は私が責任者で実施しました。松尾は石峠トンネルの手前の部落を左に入ったところにあり、私が子供の頃は38戸ありました。地震の前は19戸で、今は15戸。長岡駅から約30分ですが、典型的な限界集落です。何年かすると村が絶えてしまうのではないかと心配しています。地震の時は入東地区で県営中山間総合整備事業をやっていました。10年目の平成16年11月5日に通水式をしようと思っていたら中越地震がおきました。当時県営事業の役員をしていましたが、区長をしたのが17年度4月1日から20年3月31日までの4年間でした。最初の2年は毎日飛んで歩いていました。地震の時はどうしていいか分からず、親戚の車庫に避難しました。どういう状況か分からず、朝までそこにいたのですが、翌日見たらひどい状況でした。村中が栃尾市民会館に避難しました。栃尾の町では被害はほとんどなかったです。11月1日に村へ戻りました。この年は役員でもなく、土地に詳しいというので測量に1週間出て(信越測量の手伝い)、村じゅうの田んぼを測量しました。翌年の春に区長になるというので、災害対策本部を作りました。平成17、18年と復旧工事を行い、19年度から作付けを再開しました。国にみんな直していただき感謝しています。田んぼは復旧したが水路ができず、平成18年は水不足になりました。平成19年度には復興基金を利用して神社を直し、翌年には公民館を直しました。また、共同施設維持管理事業としてお金をもらい、5年間で使うことができました。平成20年度には防災設備も整えました。地震後の事業は平成19、20年でだいたい終わりましたが、結局4戸減り、残った15戸のうち3戸は独り暮らしで、問題はいろいろ抱えています。

地震から5年の活動を振り返って

阿部恒雄さんの画像
阿部恒雄さん

廣田嘉夫さんの画像
廣田嘉夫さん

宮里) これまで活動してきた中で感じたこと、問題、良かったと思っていることなどをもう少し詳しく教えてください。
長島) 私たちは2年間避難所で畑の学校をしてきました。2年目から虫亀や種苧原では家に戻り始め、畑の学校をやる人も減りました。3年目は山古志に戻った人が通いで仮設住宅に畑をやりに来ていました。その仲間の一人、竹沢で田んぼをやっていた人が、自分の田を復旧したが水が出ないので畑にしていいよと言ってくれました。その人は自分で畑に作り替えてくれました。基金事業で、井戸を掘ってくれるという制度があったのですが、それはしなくていいからといって田んぼには戻さず畑として利用させてもらっています。人数は減りましたが、まだ続けています。集落はそれぞれバラバラですが、それが逆にいいのかもしれないですね。
人家のあるところに養鯉池が多かったのですが、それも全部畑にしました。ある時、畑を見ると大きな穴が空いていました。その年は雨が多く、そこから水が入り込んで下から出ていました。復旧工事をしてもらったのに、実は直っていなかったのです。仕方なくまた直しましたが、それは自腹でした。
 ここに家を建て直すとき、14mの杭を60本打ちました。そこまでしないと許可が出ないと言われたのです。予想外の出費でした。国の制度は使いにくい部分も多かったけど、3年間で帰ることができました。それで3%だけの人口減少で済んだのかもしれません。これが4~5年となると、帰れない人がもっと多かったかもしれません。帰りたいと思う人たちが帰ってこられた。帰ってきた人たちがここで幸せに楽しく暮らすことができれば、それでいいのではないでしょうか。
宮里) こういうところで暮らすには、それなりの対策が必要で、それには出費も多くなる。もっと支援の仕方を考える必要がありますね。畑の学校は現在何人ですか?
長島) 今は6人。もとのグループに戻った人たちもいます。今、直売所が13~14箇所あります。これだけ狭いところにこんなにある。2月に2回ほど直売所の代表が集まって会合を開きました。そしてみんなの気持ちを聞き出しています。この前出た話ですが、役場でやっている「ありがとう祭り」の時に、そこだけで直売所をできないかと考えています。普及センター等の支援で神楽南蛮保存会を結成しました。県職員の人たちが心配するのは、山古志は入ってみるとバラバラだということ。集落を重んじる気持ちが強いのです。集落ごとにまとまっていればいいと考えてしまう。それも必要ですが、次は「山古志」としてのまとまりを考える人が増えてほしい。それなりの施設もないのです。
阿部) 施設がないといいますが、川口ではまず掘っ立て小屋を作りました。そこに野菜を持ってきてくれと言ったら、みんなが持ってくるようになりました。最初は本当に持ってきてくれるか心配でしたが、だんだん増えてきました。
長島) やっぱり行政がとりまとめてくれるといいのですが。闘牛の時に闘牛場の上と下で直売所をやったら、下の直売所から文句が出ました。みんなで何かをしていかないといけない。今は60才過ぎの人たちが中心ですが、次に若い人たちがやりたいと思ったときに、人が来なくなってしまうことがいちばん心配です。今は山古志に風が吹いていることはよく分かっていますが、後のことをもっと考えてほしいです。それができるのは今しかないのです。行政からもあと何年かしか手伝ってもらえない。私が今考えているのは「自立」。どうにかしてそれを実行していかないといけないですね。
片岡) 私は農業に関しては素人。素人ですが、旦那とは違った町場の感覚があり、だからこそ言えることがあると思います。私の立場は都会の若者と半分似ているところがあり、だからこそ、そういう人たちを呼ぶこともできるのです。しかし、旦那にはなかなか理解してもらえない部分が多かったです。私が行く前は、棚田のはざかけ米の無農薬のもの(最高級品)を普通のお米と同じ値段で買い取ってもらっていました。それを聞いて驚きました。どうして価値のあるものを価値のないものにしてしまうのかと疑問に思いました。でもどうしたら付加価値をつけられるのか、その術がなかったのです。その話を周りの人にしたら、買う人は絶対いるはずだと言われました。じゃあやってみようということで、残ってもいいから実験することになりました。震災から3年目に米作りができたのですが、それを「復興米」として、東山の闘牛場で売ることにしました。値段の付け方が分からず、インターネットで調べ1kg千円の価値はあると分かり、1kg千円としました。旦那にもお父さんにも「馬鹿なことを言うな!絶対売れるわけない。」と言われました。1つ千円ならおみやげにもちょうどいいのでは、という考えでした。20袋用意してもらいました。お昼には全く売れていなかったのですが、夕方には半分以上売れました。重いので帰りに買っていく人が多かったようです。とても驚かれました。それを皮切りに始めました。最初は良かったのですが、現状はそんなにたくさん売れていません。定期的に買ってもらえるようになるのは難しい。でもゼロではない。高いと思いながらも買ってくれた人が、おいしいと思ってくれて年間契約をしてくれたケースもあります。そういう人たちが少しずつ現れてきています。もっと活動を広げて「復興モデル!」と言われたいところですが、そこまではいかないのが現実です。でも地道に活動していく中でお客さんがついてきてくれるので、これからも続けていきたいと思います。
 毎年お米を買ってくれる人に、東山へ来ませんか?と言っていたら、来てくれて、そうしたら関係性が変わってきました。実際にやってみると、千円でも高いと思って売っていたのに、「3千円でもいい」と言ってくれた人がいました。その気持ちだけで、「あぁ、やってよかった」と思えました。救われる思いがしました。そういうお客さんとは対生産者、対消費者以上の関係づくりができてきました。親戚のような気持ちです。そういう付き合いを重ねていくことで、いい関係性を少しずつ広げていきたい。3年間やってきましたが、思うように売れないところで疲れてきて、今後どうしたらいいかという話もしています。焦らずにできることを地道にやっていく中で、いろんな人との出会いもあるので、少しずつ、でも積極的にやれることをやっていきたいです。
廣田) 1kg千円?!
片岡) 高いですよね?やっぱり高いとは思っています。
宮里) 個人で販売しているのですか?
片岡) 4戸のグループでやっています。4戸のうち2戸がはざかけ。もう2戸は、はざかけではないですが、棚田で減農薬栽培です。そんなにたくさん作っているわけではないです。だからあがけるという部分もあります。価値の分かる人にとっては安いし、価値の分からない人にとっては高い。いかに価値の分かる人につながれるかだと思います。
長島) うちのはざがけ米は1俵21,000円(玄米)。なんでそんなに安いの?といわれます。とてもおいしいと言われているお米なのに!直売所で売るときは、検査米ではなくてもいいのでしょうか。
阿部) 直売所に出すときは検査米でないとダメです。農協に頼んで検査してもらうこともできます。農協に相談してみるといいですよ。個人的に売る場合は未検査米でもいいですが、店頭に出すには検査米でないとダメです。
片岡) 山古志へ行くと、お米が安く売っていてびっくりします。
長島) 安いですよ!1kg500円ですよ。ものすごくおいしいけど500円です。
阿部) うちは約8ヘクタールほどやっています。700俵のうち400俵くらい農協へ出し、200俵くらいは飯米です。東京の狛江市と川口町が交流していますが、向こうの広報に出してもらって、12人くらい毎年来てもらっています。体験と15kgの玄米を合わせて1万円で来てもらっています。田植えと稲刈りの時だけ来てもらっています。3月までの限定で、玄米1俵(60kg)26,000円とし、10~3月まで希望の時に着払いで送ることもしています。
 事務局は私がやっています。組合には保冷庫がないので4月以降は品質が悪くなるので売りません。保冷庫を作るかどうかは今考えているところです。売るとしても品質・食味を重視していることを全面に出していきたいです。私たちは特別栽培米に取り組んでいますが、そういうことを前面に出すことにより、一般の米と違いを出して売っているのです。食味を重視するには有機質が必要なので、毎年、豚ぷんや鶏糞など有機質肥料を入れて栽培しています。また、土によくないということで、畦畔に除草剤はまかず、ティフブレアという芝を植える運動をしています。5~6年前から取り組んでいますが、それを見て周りも植えるようになってきました。それもPRしていきたいです。ただ単に米を作っているだけではダメ。はざかけ米とか無農薬だとか、何を売りにするかを明確にしていかなくてはなりません。他より高くなくても、安くなければいいのです。
 この地震でいちばん感じたことは、行政は復旧をしてくれるが、復興はしないということ。自分たちで声をかけて、自分たちでいい方向へ持っていかなければなりません。そういう話し合いの場がないと前に進んでいかないのです。復旧はお金をかければできますが、復興は人が集まらなければできません。それをいかにやっていくかを考えていかないと、せっかく復旧したものも無駄になってしまうのです。
廣田) 平成20年度に復旧はほぼ終わり、中山間直接支払いもやっていたので何か共同でやろうということになり、役所の指導もあってトラクターを1台と畔塗機を買いました。平成21年の春から使い始めたのですが、7~8人が使ってくれています。高齢のため自分で運転できない人は、オペ付きで頼んでいます。今のところ好評ですが、今後の維持管理は大変です。共同はいいことばかりではなく、めんどうな面もあります。米はほとんどの人が農協に出したり、個人に販売しています。個人だと2万~2.2万。農協だと1.4~1.5万円。私は120~130俵とりますが、70俵くらいは農協へ、20俵は個人に売っています。東京あたりだと60kgあたり2.4万円でも全然高いとは言われません。必要があると電話が来て、宅急便で送るのですが、手間がかかります。味は魚沼に負けないという自負はあります。確かに味はいいです。取り組みといえばそのくらいです。
阿部) 機械の共同利用は難しいです。みな自分がやりたいときにやりたいので、会社を作った方がいいと思います。そうしないと調整がうまくいかず、役員ばかりが苦労すると思います。

これからの夢

これからの夢の画像1これからの夢の画像2

宮里) それぞれいろんなやり方で、共同の取り組みをされていますが、これからの夢、こんな風になってくれるといいなぁということを聞かせてください。
長島) 私は直売所を一つにしたいという思いがありますが、今の段階では無理があるので、1箇所だけでも、そう言う場所を作っていきたいと考えています。それがだんだん広がっていったらいいですね。あとは、これからは自立ということを考えていかねばなりません。ある人から「卒業式をやればいいじゃないか」と言われました。ボランティアの方たちは、私たちから手を離しつつあります。
中学生の考えてくれた「山古志汁」というのがあり、肉団子の中にかぐら南蛮味噌が入っています。何か力になりたいという思いから2年前に生まれたもので、それをスキー場の食堂で出したり、イベントの時に出しています。ボランティアの方たちがいろんな仕掛けをしてくれました。彼らは私たちのような者から、お年寄りまで相手にしてくれています。でも、あまりにも頼りすぎていて、ボランティアがいないと生活できなくなるのが心配です。直売所を一つにするために直売所の人たちを集めて話し合いの場を作ろうとしてくれています。もう何年かのうちにどうにかしてやろうという気持ちがあるので、私たちもそれに答えられるよう、バラバラになっているところを少しでもまとめられるように努力したいです。
宮里) 一つは自立、もうひとつは将来「山古志」を一つのものにしたいということですね。急がず、少しずつ。
片岡) 今のところこれだ!という打開策がないというのが現状です。でも、震災を契機としていろんなところでシンポジウムとか行政も民間もいろんな動きが出てきていることや、今でもボランティアの方々が末永く力になってくれていること、農村との付き合いを続けてくれる人がいるということは財産だと思います。それを長いスパンで時間をかけて続けて行けたらいいと思います。自分ができることは、どんどんこういう場に出ていってつながりを作り、外に声を発していくことだと思います。
この3年間がんばってきて、ちょっと疲れたねという話をしています。でも「疲れた」で終わらせたくないのです。無理もできないけど、長い目で見ようと思っています。
震災の時出会ったお母さんが、「野菜は高い国産より安い外国産を選ぶ」と言っていました。その家族を田植えに誘ったり、大豆から味噌を作ったりして楽しくやっていたら、ある時そのお母さんが、「やっぱり国産だよね」と言うようになりました。その後、そのお母さんが話を聴いてくれと言ってきました。彼女の娘さんが学校の学年代表で、保護者会で作文を発表することになったのですが、その作文で、娘さんが「将来私は自分のおかあさんのようになりたい」と言ってくれたのだそうです。お母さんがおいしいご飯や新鮮で安全なものを食べさせてくれる、それがとてもうれしいので、そういうことができるお母さんになりたいと言ってくれたとのことでした。それでお母さんは涙が止まらなかったそうです。それを聴いてすごくうれしくなりました。娘さんがそういうことを言うようになったのは、私たちのところで里山の暮らしに触れたからであり、そのお母さん自身も変わることができたと言ってくれました。私は「これだ!」と思いました。当時その娘さんは5~6年生だったのですが、もっと何か言い出すのではないかと思っていました。そうしたら、最近うちへ来てくれたときに、「管理栄養士になりたくて勉強しているんだよ」といってくれたのです。「やったー!」と思いました。農村とは関係ないですが、必ず食というところで役に立つし、どんな職業に就くかは分かりませんが、ここでの体験がその礎になると思うのです。そして、今度は彼女が自分で学んだことをどこかで発信していってくれるのではないか、というのが私のやりがいにつながっています。
最初は「目の前の棚田を守るために!米を売って・・・」という気持ちでしたが、それも大事なんだけど、プラスアルファーの部分が自分たちのパワーになっています。そういうことを地道にやって行けたら、いつかそれがつながって、復興のきっかけの一つになったらいいと思っています。
宮里) 自分のいるところが変わるのではなく、知らないところで世界が変わっていくということですね。つながりができると新たな価値が生まれ、別なものが生まれるのだと思います。
阿部) 私は会社という形で農業をやっていますが、そのきっかけは、子どもたちに農業を見直してもらいたいという思いがあったからです。中学生や高校生が田んぼにいることなどほとんど見かけません。なぜかというと、親は農業をやっていても子どもにはさせたくないという思いが強いのではないでしょうか。最初は古いトラクターなどを集めてきてやっていましたが、これでは先行き明るくないし、子どもたちは農業をやってくれません。では持続する農業とはどうしたらいいか、ということの答えが会社というものだったのです。後継者を養うために、「作業には子どもたちを連れてきてくれ」と言っています。その時には新しく、いい機械に乗せたりしています。今後も機械を新しくするなど、子どもたちが来たくなるような作業環境作りをしていきたいです。それが今必要ではないかと思っています。
いずれ私はここから身を引いて、加工などをやって発展させていけないかと考えています。そしてそれが地域の活性化につながっていけばと思っています。今年考えているのが、木沢集落で農業をがんばっているお母さんたちの応援隊を作ることです。木沢のおばあちゃんたちはとてもがんばっているのですが、高齢で畑をやるのは大変です。そういう方々のために、畑づくりで一番大事な畝づくりとマルチかけを手伝えないかということを考えています。そのための機械を軽トラに積んで廻ったら、おばあちゃんたちはますます元気に畑ができるのではないかと考えています。全て手伝ってやらなくても、何か少し手助けすることで元気になれるのです。
宮里) ひとつは子どもが続けられる農業ですね。
長島) やはり大人が楽しくやっていないとダメです。
阿部) こういった活動のお陰で、今までは集落の若い人とあまり話をしなかったのですが、作業に出てきてもらうことで若い人たちと話ができるようになりました。これは大きな違いです。
廣田) わたしのところは、これから何をやるという計画もない部落ですが、水路のことが気になります。地震で來伝川の上流から水をあげているところが、測量も出来ないくらいだめになりました。役所も諦めて、手前の沢から頭首工を作って水をあげることにしたのですが、この沢は水道の水を上げる沢でもあり、水道の水を取ると自動的に水が少なくなる。今後も水不足が心配です。
もうひとつは、農業の問題とは違いますが、独り暮らしが3人いる中で一人の男性が認知症になって困っています。
あとは除雪の問題。合併して何年かたつうちに段々手が行き届かなくなるのではないかと心配しています。
宮里) それぞれ皆さんの状況があり、いろんな協力の仕方があり、工夫しながらやっているということがわかりました。米の値段など、やはり自分のことだけやっていると分かりません。われわれの役割はそういった情報を広く発信していくことかもしれないですね。先ほども話がありましたが、役所は復旧のお手伝いは出来るけれど、復興はなかなかできません。また、みなさん言っておられましたが、これからは長い目で、長いスパンでじっくり取り組んで行かなくてはならないと思いました。
 みなさんが今どう思いながら生活しているのか、われわれの仕事は役に立っているのかということなどを、みなさんにお伝えし、HPなどでも発信していきたいと考えています。
 今日はどうもありがとういございました。

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