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地域と共に農地・農業用施設をまもる ~7・13新潟豪雨災害から5年の歩み~

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0055508 更新日:2019年3月29日更新

地域と共に農地・農業用施設をまもる ~7・13新潟豪雨災害から5年の歩み~

 平成16年7月13日に発生した7.13新潟豪雨災害から5年が経ち、被災地においては平穏な生活を取り戻しつつあります。
 被災した農地・農業用施設等の復旧工事は平成18年度までに完了し、新たな災害への備えも徐々に進んでいるところです。
 このたび、7.13新潟豪雨災害からの5年の歩みの中で見えてきた課題や、その課題への取組事例などについてまとめた小冊子を作成しました。

掲載内容

表紙[PDFファイル/1.28MB]
はじめに~三つの課題[PDFファイル/1.01MB]
課題への新たな取組(1)[PDFファイル/1.09MB]
課題への新たな取組(2)[PDFファイル/1.38MB]
裏表紙[PDFファイル/1.28MB]

ホームページ限定詳細版

 今回発行した冊子に掲載しきれなかった内容をこのホームページ上でご紹介します。

インタビュー(福島江土地改良区理事 井上保雄さん)

八丁潟地域の湛水状況の画像1

八丁潟地域の湛水状況の画像2
八丁潟地域の湛水状況

期日 平成21年6月16日(火曜日)
場所 井上さん宅(長岡市百束町)

百束町の辺りはどんなところだったのですか。
 この辺りでは、水害が起こる以前から雨が降ると男も女も土俵づくりの態勢が整っており、堤防が切れると家中の人がかり出されるのです。梅雨明けまでは旅行にも行っていられない地域です。「土回り」といって、入梅になると7人くらいの役員が川を見回りしていました。水害後は河川改修が進み、春先の湛水が無くなりました。
 ここの湛水防除は長年の苦労がありました。大正3年に猿橋川水害予防組合ができ、昭和27年から土地改良区となったのです。排水土地改良区でした。大正13年頃に栃尾で水害がありました。うちの土蔵にその水の跡が残っていて、柱が腐っていました。栃尾で水害があると影響を受けるようです。大正末期にほ場整備を実施しました。

7.13水害の時のことを聞かせてください。
 水害では大江用水が最大の被害を受けました。三面張りの底だけが残りました。穂水が必要だったので、応急仮工事で用水路を復旧してもらいました。湛水しなかったところもあったようです。
 避難したのですが、避難所であるコミュニティーセンターと小学校の1階が水浸しになり、翌日に別な場所へ自衛隊の舟で避難しました。避難場所は考え直さなければならないです。5~6軒の人が避難しなかったです。説得してもだめでした。
 湛水した水は、農地部の応急ポンプ、国交省のポンプで湛水排除を行いましたが、その年の稲はだめでした。農業災害補償制度で補償してもらいました。場所によってはそれほど減収にならなかったところもあったようです。2町歩やっていますが、2俵の飯米が取れました。全滅のところもありました。

水害後に何か地域として実施していることはありますか。
 水害後に百束町の自主防災組織を作って活動しています。また、長岡市から補助金をもらって防災用品を揃えました。1年に1回防災訓練をやっています。長岡市からの補助金で買った担架やリヤカーを実際に使って寝たきりの人などを運搬しています。隣の家の安否を確認するネットワークもできました。
 新しい揚水機場を造ったのですが、平成16年度に上屋だけ建てました。水害後に電気設備を設置したのですが、水害時に湛水した高さまで上げて設置しました。水害後にほ場整備も完了しました。

今後の課題などについて聞かせてください。
 猿橋川は今まではなかなか河川改修が進まなかったのですが、この水害でどんどん進みました。今後はその成果が試されます。しかし、真野代(下流部)をよくしないとだめです。水田では畔越しくらい我慢するように言っているのですが、みんな自分の田んぼがかわいいからいろいろと苦情が出ます。でも、堤防が切れればもっとひどいことになるのです。今の人は生まれたときから乾田で、排水にお金をかける意味がなかなか分からない。昔の資料を掲示しておくなど、歴史を知る必要があります。

最近の状況はいかがですか。
 平成17年からは田植えができました。一年で元に戻り爪痕もないですが、担い手はいません。
 水害で流れてきた魚が水路に棲みついています。ソウギョなどもいました。大江用水を行ったり来たりしています。9月には小学生を対象とした生き物調査をファームポンドでやっています。
 5年経ちましたが、雨季が来るとやっぱり心配になりますね。

インタビュー(吉水江管理委員長 渋谷恵助さん)

吉水江の被災状況の画像1

吉水江の被災状況の画像2
吉水江の被災状況

期日 平成21年6月16日(火曜日)
場所 渋谷さん宅(長岡市吉水)

7.13水害の時のことを聞かせてください。
 午後1時半頃に堤(ため池)へ行ったら土手に水が溢れていました。見ているうちに土手を水が越えはじめ、決壊しました。午後2時頃に集落に避難勧告が出て、その30分後に約80cmの水が集落へ流れてきました。被害は床上浸水7件、床下浸水17件でした。
 水害後、山腹水路である吉水江を全部歩いて被災状況を確認しました。16箇所が被災していました。中山間地域農地防災事業で7,600mのうち7,000mを改修したこともあり、最悪の事態はまぬかれたようです。目地をコーキングしてあったので水路は崩れなかったのですが、溢水による法崩壊が多かったです。7月16日に2時間半かかって長岡振興局へ行き、被害状況を報告しました。吉水江では応急工事をすばやく実施してもらったので助かりました。

水害後の状況はいかがですか。
 稲の被害はあまりなかったようです。災害復旧は1年で終わりました。水害後に圃場整備を実施しました。吉水江の管理は吉水集落で昔からやっていました。受益は8ヵ村あるのですが、吉水が代表してやっています。年2回草刈など維持管理をやっています。これは水害後も変わりません。

今後について聞かせてください。
 暦は60年に1回戻るようです。あの年は、年頭の挨拶で「今年の7月に災害がある」とみんなに言いました。水害が起こる夢を見たので。今年はまだ災害の夢は見ていないので、大丈夫かもしれませんね。吉水集落では、自主防災組織を作ろうという話が出てきています。

寄稿(中之島土地改良区総括監事 大倉豊則さん)

大沼排水機場の湛水状況(旧中之島町)の画像1

大沼排水機場の湛水状況(旧中之島町)の画像2
大沼排水機場の湛水状況(旧中之島町)

「大沼排水機場を守って」

 職場に近い栄町避難所内のテレビで、今町大橋付近で中之島側の刈谷田川堤防が決壊したことを知った。社長から帰るよう言われ、家に戻る車の中で昭和36年の水害を思い出していた。家に着くと、西野集落センターで災害対策本部を立ち上げているとのこと。池田理事長より「大沼排水機場に来て欲しい」との連絡があり、行ってみると理事長、工事課長、機場運転手がそろっていた。問題は、機場の水位がどの位になるのかであった。機場内に水を完全に入れないようにすることは大変難しいように思われた。
 昔の運転日報を機場の奥から出して昭和36年水害の時の水位を調べてみると、機場が建っている標高から1mくらいになると想定されたため、土嚢は1.5mの高さに積むこととした。しかし、土嚢を1.5m積んで水を完全に遮断するには、砂の土嚢では無理。シートで両側から包み、さらに上からしっかりと踏み固めながら積み上げなければならない。機場にはシートが無かったため、勤務先に電話してシートを貸してもらい、地元消防団にも協力してもらい、積み終わったのは夜11時頃。決壊した刈谷田川からの水が機場に達したのは、それから1時間後のことであった。水が来てからも、ガソリンポンプの不調、水中ポンプを回す100Vの電気が足りないなど、いろいろな問題が次々と出てきた。一睡もしないで入り口の土嚢から出てくる水をくみ出した。水位は刈谷田川の決壊から24時間後、1mに達していた。このような状態でもポンプは稼動していた。奇跡だった。大勢の人たちの協力で機場を守ることができました。
 水害後、大沼排水機場では建物の周囲に高さ1.5mのコンクリート壁を設置。さらに、機場内に浸入した水を排除するための水中ポンプと発電機を常備し次の災害への備えを強化しています。

排水機場の周囲にコンクリート壁を設置の画像
排水機場の周囲にコンクリート壁を設置

水中ポンプと発電機を常備の画像
水中ポンプと発電機を常備

寄稿(下田土地改良区主任 大竹哲さん)

滝のように濁流が流れる田んぼ(旧下田村)の画像1

滝のように濁流が流れる田んぼ(旧下田村)の画像2
滝のように濁流が流れる田んぼ(旧下田村)

「7.13水害を振り返って」

 今5年前を振り返ってみても「いつ何をどうした」というものがはっきりと時系列で思い出されないのが現実です。経験した事のない大きな災害を前に右往左往しながら問題に対処するのが精一杯だったんだと思います。ただ、断片的に、でも鮮明に、場面々々が切り取られた映像のように浮かんできます。
 見る見る増水していく水路。道路にまで溢れ出る土砂と泥水。河岸段丘で階段のように連なる田んぼは滝のように濁流を吐き出し、五十嵐川でさえ茶色く濁った水が橋まで迫る勢いでした。稲の苗が青々と育っていた田舎の原風景は、にび色と茶色だけの世界になっていました。そんな映像と共に雨具を通して鼓膜に響く痛い位の雨の音が耳に残っています。
 豪雨が通り過ぎた後の農地・農業用施設は大小災害の山でした。その多くを下田村先頭のもと復旧して頂きました。そんな中、土地改良区にとって大きな災害が頭首工の被災です。約780haの受益を抱える施設の転倒堰が濁流の水圧によって捻じれ、取水ゲートの巻上げ機までもが水没し取水出来なくなりました。また河川敷を流れ140haの受益を持つ幹線用水路の流失も大きな被害でした。7月中旬、番水・通水規制を行う地区もあるほど出穂期を控え用水が大切な時です。復旧が急務でした。土木事務所との協議、製品の手配、施工業者との打合わせ等足早に時間が過ぎていく中で数百年に一度ともいわれる豪雨による断水が10日間だけで済んだ事は関係各機関の協力があったからこそでした。
 災害を経験し最も大切だと感じたのは「地域の力」「人の力」です。地元消防団の献身的な活動や地域の建設業者の迅速な対応、また住民自らも土嚢積みや炊き出しを行うなど大きな災害に直面した時は地域の纏まりが一番の財産なのではと感じました。しかし高齢化・過疎化により年々地域の繋がりが希薄となって来ています。今、土地改良事業はハード・ソフト共、既存施設の有効利用や長寿命化、維持管理を主体とする事業に移行してきています。そのいずれもが地域住民の協力があってこそ有効に活用される事業ですし、また事業により地域の繋がりがさらに深まる切っ掛けとなります。土改職員として、そのような地域にも住民にも大きなプラスとなる事業を推進して行けたらと思っています。そしてそれが地域コミュニティの活性化を促進し、農業情勢の悪化や突発的な災害に対して強い地域作りに繋がって行くのではないかと考えています。

7.13新潟豪雨災害座談会

被災地で活躍された方々に、7.13新潟豪雨災害からの5年を振り返り、当時のことや今後の防災について語っていただきました。

開催日
 平成21年6月17日(水曜日)
会場
 三条地域振興局 第1会議室
参加者
 坂内孝治郎(三条市北五百川 北五百川自治会長)
 角田莊一(三条市諏訪 諏訪一自治会長)
 原定幸(長岡市菅畑 農業(元栃尾市農林課長))
 岩崎ヨリ子(長岡市中之島 (有)いわみや経営者)
 宮里圭一(新潟県農地部農地建設課長・コーディネーター役)

座談会の様子の画像
座談会の様子

坂内孝治郎さんの画像
坂内孝治郎さん

角田莊一さんの画像
角田莊一さん

原定幸さんの画像
原定幸さん

岩崎ヨリ子さんの画像
岩崎ヨリ子さん

宮里農地建設課長(コーディネーター役)の画像
宮里農地建設課長(コーディネーター役)

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