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農業水利施設の歴史探訪シリーズ vol.1 『上江幹線用水路』

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0005143 更新日:2019年1月17日更新

上江幹線用水路の概要 【にいがた農業水利施設百選(整理番号53)】

 上江幹線用水路は、新潟県南西部の上越市及び妙高市の山腹沿いを中心に位置し、全長約26kmのとても長い水路です。この水路は、およそ400年前に工事が始まり、先人達の努力によって土水路として完成しました。また、昭和に入ってからは、県営上江用水改良事業や国営かんがい排水事業関川地区などにより改修され、現在のコンクリート三面張り水路となりました。
 上江幹線用水路は一級河川関川から取水し、約3,000haの水田に用水を供給しています。なお、受益地では県営ほ場整備事業三和南部地区など基盤整備が実施され、安定した農業経営が行われています。

上江幹線用水路の画像
上江幹線用水路

インタビュー協力

インタビューの様子の画像
インタビューの様子

  • 齋藤義信さん(農事組合法人 高野生産組合 代表理事)
  • 梅澤一了さん(関川水系土地改良区 総務担当理事)
  • 玉井英一さん(関川水系土地改良区 事務局長)

上江幹線用水路の歴史 ~偉大な先人達の話~

 上江用水ができる以前は、小河川や湧水、雨水に頼っていたため、用水不足による不作や干ばつの被害に農民は悩まされていました。一滴の水も欲しい農民たちが自らの農業生産性を確保するために、今から約400年前(天正年間)に関川を堰き止め取水し、それを導く用水路を‘自力’で開削したのが、上江用水の始まりと言われています。
 工事については、以下の3期に分けられます。

上江の水路図〔山に穴をあけた先人たち(発行:上江土地改良区)より〕[その他のファイル/1218KB]

第1期工事 天正年間から正保年間まで(1573~1648年)

 第1期工事では、新井市川上地内から吉木新田地内まで開削されました。
開削工事では、上流の取水口から下流の平野部へ用水を運ぶために、どうしても川上集落の松岡伊右衛門方の屋敷の下に、繰穴隧道(トンネル)を掘削する必要が生じるなど、土木機械の無い時代に人力による難工事が迫られました。

川上繰穴隧道入口(新井市川上地内)の画像
川上繰穴隧道入口(新井市川上地内)

第2期工事 慶安年間から元禄年間まで(1650~1694年)

 第2期工事では、新井市吉木新田地内から清里村上深沢地内まで開削されました。
第2期工事をリードした人物が、高野村(現、板倉町高野)の庄屋(村の役人)である清水又左衛門でした。水路の堀り継ぎでは、上流部との調整に大変苦労しました。
 しかし、清水又左衛門は幕府の直轄領である代官所や高田藩領に、工事の許可を何度何度も願い出ることで、やっと許可を得ることが出来ました。工事の総責任者として一身を捧げた又左衛門は、亡くなってからも長く農民に慕われ、その遺徳を敬し農民から清水家に石仏が贈られています。その石仏は、今でも清水家の庭で大切に保存されています。
 またこの時に、水路の上流部の維持管理費を、下流部の人々が負担するという『客水』が始まったと言われております。

清水又左衛門を祀る清水家の地蔵尊(板倉区高野地内)の画像
清水又左衛門を祀る清水家の地蔵尊(板倉区高野地内)

第3期工事 明和年間から安永年間まで(1772~1781年)

 第3期工事では、清里村上深沢地内から三和区岡木地内まで開削されました。
 第3期工事をリードした人物が、川浦村(現、三和区川浦)の庄屋の下鳥冨次郎でした。冨次郎の住む川浦村や下流の村々は、飯田川や天水を水源として稲作をしておりましたが、高田藩の水田開発が進むにつれ再三水不足に悩まされていました。干ばつで飲み水さえない農民のために、下鳥冨次郎の父や祖父は幾度も上江用水の堀り継ぎについて代官所に願い出ますが、その度に周辺の村々からの反対があり計画は実現しませんでした。

現在の三丈堀呑口の画像
現在の三丈堀呑口

 しかし、明和8年(1771年)に頸城地方一帯が大飢饉に襲われ、これに苦しむ農民に深く同情した冨次郎は、再度、江戸奉行所まで出向き水路の堀り継ぎについて願い出ました。このことを知った周辺の村々100ヶ村は、水路の堀り継ぎの反対を代官所に訴えたため、大規模な水争いへと発展しました。
 それでも諦めない冨次郎は、死を覚悟し再び江戸奉行所に行き、農民の窮状と反対する村々の非を訴えました。その結果、1775年にようやく自分達が直営で工事をすることを条件に、堀り継ぎ工事の願いが聞き入れられ、工事が始まりました。
 しかし、世紀の大事業とも言われる三丈堀工事(岡嶺丘陵地を三丈(約9m)掘り下げや櫛池川の下に隧道(トンネル)を掘った工事)に直面するなど、当時としては希に見る難工事となりました。また、工事には莫大な費用を要したため、冨次郎自身の私財を投げ売ってその資金を工事費に充てました。

下鳥冨次郎を祀る『上江北辰神社』(三和区川浦地内)の画像
下鳥冨次郎を祀る『上江北辰神社』(三和区川浦地内)

 このように、3代にわたる堀り継ぎの悲願は約90年の歳月を費やし、ようやく上江用水が完成しました。その後、毎年のように干ばつに悩まされていた村々の田畑は、一転して肥沃な美田に変わりました。
 上江北辰神社には、下鳥冨次郎が守護神として祀られており、今日までその功績を後世に伝えています。

先人達への思いと後世への引き継ぎ~土地改良区の役割~

 土木機械のない時代、莫大な工事費と工期、人足がかかってでも、自らの生産を確保するために、一滴でも水が欲しい農民たちは、命を賭して上江用水の開削にあたりました。当時の先人達の苦労と努力、執念の結果、高田平野約3,000haを潤す用水の礎が完成しました。
土地改良区としても水や施設の管理の他に、このような先人達の偉業を後世に引き継いでいくことも大事な使命と認識しています。そのために、毎年度、川上権現社祭礼や上江北辰神社例大祭など、先人の遺徳に感謝し安全通水や五穀豊穣を祈願する慣行行事を計画しています。

上江北辰神社例大祭の様子の画像
上江北辰神社例大祭の様子

 また、21世紀土地改良創造運動の取組を通して、地域イベントや小学校などへ先人達の偉業や農業農村の役割などの普及啓発に努めています。特に、土地改良区の若手職員を中心として製作した紙芝居(上江用水編、中江用水編etc)は、子供達が興味を持って聞いてくれるなど好評な様子です。

地域の小学生へ紙芝居の画像
地域の小学生へ紙芝居

関川水系の特徴~農業用水と発電用水の共存~

 明治中頃から電源開発が始まり、関川の上流部から中流部にかけて東北電力(株)の水力発電所(全12箇所)が設置され、上越地域の電力供給を担っています。
 12箇所の水力発電所は、上から下の水力発電所へ「取水~発電~放水」を繰り返しながら、効率よく導水されます。
 これらの水力発電所の放流水は、最終的に上江幹線用水路の農業用水として利用されます。このように農業用水と東北電力(株)の発電用水とが共存しているところが、関川水系の特徴でもあります。

水力発電マップ〔ふるさとの水の力(発行:東北電力(株))[PDFファイル/930KB]

近年の状況やこれからの取り組み

上江幹線用水路の受益地区を取り巻く近年の状況

 1993年のガット・ウルグアイランド合意を契機に、主に水路下流部の集落から‘ほ場整備をやりたい’という声が上がりました。ほ場整備3地区『上江保倉地区376ha(平成20完了)、三和西部地区246ha、三和南部地区295ha』が取り組まれ、ほ場の大区画化や用排水整備、暗渠排水等の実施により農業の生産性の向上や農業経営の効率化が図られています。
 特に三和南部地区では、ほ場整備を契機に設立された農業生産法人が、複合営農(大豆の裏作)としてにんにく特産化の取り組みや関東圏との農村交流など、積極的に地域づくりに携わっています。

静岡ゆうき会との農村交流(三和南部地区)の画像
静岡ゆうき会との農村交流(三和南部地区)

これからの取り組み

 昭和30年代後半から50年代にかけて県営ほ場整備事業により整備された地区(一次整備地区)について、長期年数の経過のため用排水路など施設の劣化や老朽化が進み、再整備が必要となっています。
 再整備することにより、ほ場の大区画化や担い手の農地集積、多品種の作物(肥料米、酒米、大豆など)の団地化、用排水路等の維持管理費の軽減などが可能となり、営農の低コスト化が図られます。
 管内では、平成25年度に国の事業を活用して現地調査や基本設計を実施し、ほ場の再整備を目指しています。板倉区高野地区では、再整備に向けて農業生産法人が主体となり、集落内の調整や農業者の後継者育成など積極的に取り組んでいます。
 これからは、このような一次整備地区の再整備に取り組み、農業の生産性の向上や農業経営の効率化など更なる地域農業の発展を図っていきたいと考えております。

大豆の収穫(高野生産組合)の画像
大豆の収穫(高野生産組合)

最後に

 上江幹線用水路は関川上流部の冷たい水を取水しているため、収量は少なくなりますが食味が抜群に良い米を育てることができます。
 このようなおいしい米を収穫できるのは、約400年も昔に偉大な先人達の苦労や努力によって上江用水を堀り継いでくれたおかげだと思います。
 また、近年に入ってからも、周辺地域の基盤整備や水路の維持管理などを続けることが出来たのは、先人達の意思を受け継いだそこに住む農家の方々の勤勉さがあったからだと感じております。

感想~インタビューを通して~

 上江幹線用水路は、工事の初めから将来的なプランがあった訳ではなく、時代ごとに必要(干ばつ、飢饉等)に迫られ、部分的に掘り継がれることによって、延長26kmの長大な水路となりました。この掘り継ぎの課程には、たくさんの農民たちの苦労や偉大な先人達の努力が隠されていました。
 また、上江幹線用水路は下流部へ用水を送るために、あえて標高の高い山腹沿い設置していたようです。この設置ルートは、400年経った現在でも全く変っておらず、このことからも当時の先人達の高い技術力と先見の明などが伺えます。
 今回のインタビューを通して、毎年度例大祭を開催している等、地域の方々の‘先人達の偉業や感謝の気持ちを後世へ伝えていきたい‘という思いを強く感じました。加えて、このような価値ある農業水利施設を、多くの方々へ伝えていきたいと感じました。

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