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「良寛堂100周年と貞心尼没後150周年によせて」

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0532328 更新日:2022年10月28日更新

令和4年9月24日(土)

会場:道の駅良寛の里わしま「和らぎ家」

講師:出雲崎町良寛記念館 館長 学芸員 永寶 卓

 

講演会様子 講師の永寶卓さん

左):会場様子。右):講師の永寶卓氏

長岡市・出雲崎町・柏崎市の連携リレー講演会が長岡市で開かれました。

当日は会場を埋める 、多くの参加者が集まりました。

講師の永寶さんからは 最初に、良寛堂建立の主要人物であり、出雲崎町郷土史家である佐藤耐雪について、耐雪が当時 、どのような文化人たちと亘り合い 、良寛堂を建てたのか説明がありました 。 耐雪は故郷(ふるさと)出雲崎町が、近代思想の「物質と科学技術」で物事を判断する世の中に埋没することを危惧して、良寛堂を建てたそうです。

今年で建立100 周年になる良寛堂については、良寛堂に関わった主要人物を踏まえて、講義をされました。「良寛堂」という名称については、当初、建立計画時「大愚山良寛寺」という名称を付ける予定であったが、安田靫彦(1884年~1 978年)が佐藤耐雪に送った設計図に「良寛堂」と書いてから、いつの間にか「良寛堂」の名称が使われるようになった。これについて、良寛は生涯、行脚僧としてお寺に入寺しなかったこと、また寺号の取得には、いずれかの宗派の本山に属さなければならなかった為 、「良寛寺」の名称が良寛の生き方と寺号登録が困難であることを踏まえた安田靫彦のはからいで「大愚良寛寺」から「良寛堂」へ変更したのではないかという、安田靫彦の意について話してくださいました 。

そのほか、良寛堂が木造であることや、 建立時、良寛堂内部に良寛の肖像画や良寛の遺品の数々を納めることで、良寛堂に「良寛の精神を閉じ込めておこう」という意図があったと思われると、話されました。

講義の後半では良寛を師と仰いだ貞心尼についてもご説明され、長岡市和島地区島崎貞心尼と良寛が初対面で出会ったときに交わされた唱歌について、講師である永寶氏の意訳と説法も交えて、唱歌の意味をより詳しく紐解いてくだいました。

 

 

良寛の里美術館

講演終了後は、「良寛の里美術館」の特別展「貞心尼没後150周年展 -和島は良寛と貞心尼の出会いの地-」へ参加者を募って見学会が行われました。

講演後でもあり、また企画に携わった長岡市和島支所の職員の方からの展示についての説明もあったため、展示品をより深く興味を持って、拝見することができました。

「蓮の露」や、「良寛道人遺稿」の現物など貴重な資料が多く展示され、見ごたえのある特別展でした。

 

 

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