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【長岡】越後長岡百景の「52 八丁沖(長岡)」を紹介します

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0053502 更新日:2019年3月29日更新

 「越後長岡百景」とは、長岡圏域にある様々な「風景」と、そこに秘められた「人々の想い」を集めたものです。
 その百景のひとつに選ばれた「52 八丁沖(長岡)」について紹介します。

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「想い」のタイトル

 八丁沖があった場所

公募でよせられた想い・情景(越後長岡百景)

公募でよせられた想い・情景(越後長岡百景)の画像

 かつて八丁沖は大湿地帯で「魔蛇が住む」と恐れられる場所でした。戊辰戦争では、長岡城を落とされた東軍が、この大湿地帯から長岡城奪還を仕掛けたことで知られています。かつての激戦地も今はのどかな田園風景となり、公園にある記念の碑にそのあとを残すのみとなりましたが、その碑を眺めながら、当時の様子に思いを馳せ、歴史を振り返るのには良い場所なのではないでしょうか。
(長岡市在住 60代 男性)
※ 内容は平成16年の応募当時のものです。

百景の想いや場所にまつわる短歌(越後長岡百歌)

 八丁沖渡りし父祖の思いあれ子孫に残る矜持今でも
 ※ 内容は平成17年の応募当時のものです。

関連情報

河井継之助と八丁沖
 八丁沖は長岡の東北郊外、百束、大黒あたりから、南は富島、亀貝にいたる南北約5キロ東西約3キロにわたる大沼沢地でした。一面に葦が覆い茂り、魔物が棲むともいわれた危険な沼地だったようです。長岡藩家老・河井継之助は、新政府軍(西軍)の手に落ちた長岡城奪回のため、長岡全軍の力を一つにして、この八丁沖を密かに渡り、一気に城下へ突入することを計画しました。そして慶応4年(1868年)7月24日午後7時ごろ行動を開始し、大激戦のすえ新政府軍前線基地を占領しました。さらに全軍を4手に分け、長岡城をめざして猛進撃し、長岡城の奪還に成功しました。
 決死の覚悟をもって長岡藩が渡河した八丁沖の沼地も、今ではのどかな田園風景となっています。

関係機関リンク先

ながおか文の林から

 「ながおか文の林第5号(平成20年2月、長岡地域振興局発行)」に掲載された、戊辰戦争の遺品が多く遺されている西照寺の皆川住職へのインタビュー記事を添付します。

戊辰の戦火を伝える新組地区福井町の西照寺を訪ねる[PDFファイル/425KB]

越後長岡百景位置図

周辺地図の画像
周辺地図

越後長岡百景位置図(全体地図)[PDFファイル/724KB]


大切な思い出の場所、ありますか?-目をつぶれば、心に浮かぶワンシーン「越後長岡百景」

 越後長岡百景は、地域の人々に、その地域の自然や文化、歴史、伝統といったものを題材に、景色・シーンを応募頂き、これにあわせて、「そのシーンに対するタイトルとそこに含まれる想いや情景」、「シーンにまつわる短歌」もお寄せ頂き、それを発信していくことで、地元地域への誇りや愛着心を持って頂くことを目的に、平成15年度から平成17年度に実施した事業です。
 このページ中の「「想い」のタイトル」欄、「公募でよせられた想い・情景(越後長岡百景)」欄、「百景の想いや場所にまつわる短歌(越後長岡百歌)」欄は、応募下さった方の「この景色・シーンに込められた想い」を、応募頂いた当時の内容そのままでご紹介しています。
 少しずつ変わっていくふるさとのまちなみ。時の流れとともに、見ることのできなくなる百景のシーンもあるかもしれませんが、この場所やこのワンシーンに込められた人々の想いに、心を寄せてみてください。

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