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大瀁郷に新田拓いた用水施設
大瀁用水路風景
大瀁用水路(上越市浦川原区)開削は、新田開発の先駆として、正保元年(1644年)吉田藩への請願により許可を受け支線を含めて全長20キロメートルにも及ぶ長大な水路として建設されました。保倉川を堰上げして取水し760ヘクタールの新田と40ヶ村の集落が拓けました。その後も引き続き排水改良などの工事を進め、合計100ヶ村(現在の集落)と1,650ヘクタールに及ぶ新田開発が成し遂げられました。
大瀁用水路風景
開発以来300余年間、大瀁用水路は、頭首工より受益地までの全区間が土水路で、途中上流6キロメートルは山裾を蛇行し河川横断のサイフォンもあり、また急峻な山裾を縫うように流下しているため、土砂崩れ等が多く維持管理に多大な労力と経費を費やし用水確保に辛酸をなめました。昭和22年に「県営大瀁村外2ヶ村用排水改良事業」着工となり、昭和44年まで事業が実施されました。この事業の中で本用水路も両岸が護岸されて地区内の用水状況も大幅に改善されました。
大瀁用水路風景
本地域のかんがい用水は、保倉川と渇水時期に備えての補給水源である大池溜、小池溜を利用していますが、絶対的な用水量が不足しており水田の汎用化が阻害されていました。このため生産基盤(汎用耕地の整備)の基本条件である用水施設の整備合理化を図るため、昭和57年より、平成6年にかけて「県営かんがい排水事業頚城地区」により改修を行い、従来からの用水機構及び用水量不足を解消し、農案経営の安定と近代化農業の基礎を確立しました。