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9 加治川の歴史

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0058267 更新日:2019年3月29日更新

大正初めに建設された加治川分水路土砂吐水門
大正初めに建設された加治川分水路土砂吐水門(田辺修一郎氏提供)

 加治川は、その源を新潟、山形との県境をなす飯豊連峰の御西岳、北股岳に発し、山間渓谷を西流して滝谷集落付近より大きく湾曲し、北西に向きを変え、支流、内の倉川、姫田川を合流し、新発田市内を経て、日本海へ注ぐ、流路延長55km、流域面積346立法キロメートルの二級河川です。大切な農業用水の水源となる加治川は、豊渇の差が著しく、周辺の農家は昔から洪水や渇水の被害を受けてきました。

大正初めに完成した加治川分水路
大正初めに完成した加治川分水路(田辺修一郎氏提供)

 江戸時代の1700年代初めまでの加治川は、真野原付近で右側の塩津潟(紫雲寺潟)に流れていたほか、一方で大きく左側に曲がり、島見前潟に流れ、阿賀野川から信濃川に合流し、新潟港で日本海に流れていました。
 享保6年(1721)、享保13年(1728)の長者堀の開削が行われ、潟の干拓が始まりました。さらにこの干拓を進めるため、潟に流入していた加治川を締め切る境川締切工事(享保13年)や潟の南側からに流入していた今泉川を加治川に流すための瀬替工事が享保17年(1732)に行われました。また、この境川の締切や今泉川の瀬替により、加治川の下流域が増水・湛水するのを防ぐため、新発田藩は砂で埋まりつつあった蓮潟から島見前潟に流れていた川を、新たに阿賀野川に直接流す二ツ山開削を享保12年(1727)に行いました。

下越の名所として有名になった加治川の桜
下越の名所として有名になった加治川の桜(田辺修一郎氏提供)

 明治22年には、加治川の上流、岡田地内でも遊水池を開発するための岡田の瀬替が行われました。このような新たな開発もあって、加治川の真野より下流地域では水害が続いていました。
 このことから明治29年、加治川周辺の18ケ町村連名で、県に加治川分水路工事を申し出て、途中日露戦争(明治37年から明治38年)もあり、分水路工事は明治41年5月起工し、7カ年の歳月と20万人の労力を費やして大正3年に完成しました。この工事は真野原新田から次第浜の日本海に至る4.9km、幅109mから182mで砂丘地を開削、また分派地点には、加治川本川(現在の派川加治川)に運河水門4基と、加治川分水路に土砂吐水門4基が設置されました。出水時は、運河水門を閉鎖することで加治川本川への洪水の流下を防止し、土砂吐水門の開放により加治川分水路を通じて、洪水を海まで安全に流下させました。このとき、加治川分水路完成と大正天皇即位の記念として、堤防には6,000本の桜が植えられ、昭和41年の水害前までは「長堤十里、日本一の加治川の桜」としては賑わっていました。

加治川流域の水田を潤す内の倉ダムの画像
加治川流域の水田を潤す内の倉ダム

 加治川放水路完成以降、昭和4年までにその上流、姫田川合流点6.5km区間について、断面を拡大する工事が行われました。また、その上流の加治川の本川岡田までと支線の姫田川、坂井川については、締切橋まで堤防の補強などが行われましたが、各所で堤防の破堤、決壊による被害が発生し、昭和27年から中小河川改修事業が着手し、加治川改修が進められていました。
 この頃の加治川には、大小13個所の用水取水樋管があり、河川改修には大規模な取水施設の改修も必要であったため、河川改修は進みませんでした。

昭和42年の水害で壊された岡田にあった安全橋の様子
昭和42年の水害で壊された岡田にあった安全橋

 しかし、この地域では渇水に困っていたこともあり、抜本的な用水改良を行うため、国営加治川沿岸用水改良事業が動きだしました。内の倉川に利水ダムを建設し、農業用水を渇水期に放流し、下流には第1、第2の統合頭首工を設置することで、従前にあった取水樋管も不要となることから、その総合施設の完成を待ちながら、加治川の河川改修を進める予定としていました。
 しかし、昭和41年7.17下越水害、42年8.28羽越水害で、加治川の治水計画が見直され、利水用の内の倉ダム計画に治水機能を持たせたほか、加治川の治水ダムの建設が行われ、現在に至っています。

洪水調整を目的とした加治川治水ダムイメージ
洪水調整を目的とした加治川治水ダム

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