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【川東土地改良区】
「川東土地改良区」を紹介します
川東土地改良区の管内図(この地図は国土地理院発行の5万分の1地形図を使用)
川東土地改良区は、大正10年(1921)、旧川東村の614ヘクタールの耕地整理を実施するために設立された川東村耕地整理組合から始まっています。
組合は、昭和27年(1952)に北蒲原土地改良区に編入されたあと、昭和32年(1957)に独立し、現在に至っています。
川東土地改良区の現在の管理区域は、加治川から取水する新発田市小戸、宮古木、板山、大友、羽津、石喜など姫田川合流付近までと坂井川上流や板山川、三光川、姫田川から取水する菅谷、蔵光、中森までの約1,890ヘクタールとなっています。
加治川第1頭首工から取水している区域は約520ヘクタールで、残りの1370ヘクタールは、姫田川や三光川など13の二級河川から取水しています。
教育村川東の始まり
大正12年(1923)から始まった耕地整理は、昭和2年(1927)に完了し、従前地の耕地面積614ヘクタールは1.18倍の723ヘクタールとなりました。
大区画のほ場整備が進む川東地域
その当時の旧川東村(明治34年:石田村、大宮村、板津村、竹ノ俣村が合併)の村長本間百在門は、農業を基盤にすえた産業に取り組むとともに、「村の発展は教育から」という信念を貫き、ほかの町村に先がけ、大正4年(1915)に「川東村是」を立ち上げ、模範村として表彰されました。村是には「農村と農民は、国家の基礎、農村を啓発してこそ国家の進歩がある」と強調しています。
前列左から宮野眞三郎、本間百在門(少年時代)
その百在門と勉学を共にした人に宮野眞三郎がいます。宮野は、この地域の大地主として菅谷村・川東村合同農友会長や第四銀行の前身、新発田銀行常務取締役を務め、初代川東村耕地整理組合長として、耕地整理に尽力しました。なお、昭和13年(1938)、本間百在門の亡き後、宮野眞三郎が昭和19年(1944)まで村長を努めました。(写真:川東地区自治連合会発行「教育村川東」より引用)
川東地域の用水
戦前までの加治川右岸の川東地域へは、加治川から3つの堰で取水していました。
ひとつは、現在の加治川第1頭首工約300m下流の横断サイホン付近にあった、宮古木江です。この用水は、万治元年(1658)に開削されたとされ、宮古木地域の約150ヘクタールへ用水を供給していました。
災害復旧事業により更新された大庄屋頭首工
二つ目は、大友、石喜、姫田、敦賀の耕地約400ヘクタールへ用水する岡田江です。この取水口は、宮古木江取水口より下流のところにありましたが、昭和18年(1943)の7月の加治川洪水により崩壊し、その後は宮古木江を拡張して岡田江に分水しました。
この江や堰は、昭和40年代、国営、附帯県営による用水路の改良整備がなされるまで、川東土地改良区の主要な取水施設として、大切に守られていました。
昭和41年7月17日水害:岡塚橋付近で、地元の人々が懸命に復旧作業を行う。
三つ目は、加治川の最上流右岸の小戸にある大庄屋江頭首工です。この堰は、安政元年(1854)に完成したと言われ、旧川東村石喜の大庄屋本間家が、宮古木江用水の及ばない荒れた原野を開田し、そこに用水を導水するために設置したものです。
この頭首工は、昭和41年(1966)の下越水害で、流出したことから、災害復旧事業により、堤頂70m、堤高1.5mの施設に復旧され、現在に至っています。
現在、その大庄屋江頭首工からは、用水路を経由した板山・上羽津地域へ、加治川第1頭首工からは左岸幹線から下流300mで加治川をサイホンで横断し、右岸側の宮古木・大友・高関地域へ用水供給をしています。
しかし、近年この横断部分が洗掘され、また取水施設も老朽化してきたことから、抜本的に用水供給方法を見直し、大庄屋江頭首工から右岸地域全体へ用水を配水する国営かんがい排水事業加治川用水地区が平成24年(2013)から始まっています。
大区画のほ場整備が昭和50年代から始まりました
また、戦前までに整備された耕地も、農業機械の大型化や担い手不足に対応できなくなってきたことから、昭和53年(1978)、1区画30アールとした菅谷地区(約390ヘクタール)から整備が始まり、さらに上三光地区(約80ヘクタール)、平成10年(1998)以降、1区画50アールから1ヘクタールとする大区画のほ場整備が加治川右岸地区(約390ヘクタール)、蔵光(約100ヘクタール)、川東地区(約480ヘクタール)で整備が進められており、川東土地改良区の約80%の整備が完了しようとしています。