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佐々木土地改良区は、平成31年1月25日に豊浦郷土地改良区と合併しました。

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0058283 更新日:2019年3月29日更新

豊浦郷土地改良区(旧佐々木土地改良区)を紹介します

旧佐々木土地改良区管内図
旧佐々木土地改良区管内図(この地図は国土地理院発行の5万分の1地形図を使用)

 平成31年1月25日に豊浦郷土地改良区と合併した旧佐々木土地改良区は、太田川右岸側の則清新田から佐々木駅周辺と太田川右岸地域の万十郎川、千間川、古太田川より北側の北部事業地区と古太田川より南側の吹切川・境川、万十郎川に囲まれた飯島、下興野、飯島新田、鳥穴、砂山付近の南部事業地区に分けられ、耕地約760ヘクタールの農業用施設を管理しています。

佐々木土地改良区の始まり

福島潟に流れ込む万十郎川画像
福島潟に流れ込む万十郎川

 土地改良区の歴史は、明治45年(1912)、新発田市西蓑口、飯島新田、砂山、鳥穴、乗廻、中ノ目、中ノ目新田、福島等の水田402ヘクタールの区域で耕地整理することを目的とした佐々木村南部耕地整理組合が設立された頃に遡ります。大正初期に耕地整理を進めていく中で、施工区域を増やし、大正11年(1922)、約530ヘクタールの耕地整理と砂山への排水機を設置して事業完了し、組合は佐々木村南部普通水利組合と名称を変え、福島潟周辺の溝畔修理、護岸修理や橋梁架替が多い普通水利組合となりました。

用水源としても利用される太田川の画像
用水源としての太田川

 大正8年(1919)には、佐々木村南部耕地整理組合の増加地区として、佐々木村耕地整理組合が設立され、昭和2年(1927)までに約380ヘクタールの区画整理が完了しました。この組合の協議員には、当時の大地主、伊藤家、二宮家、市島家、田巻家の代表者によって構成されていました。
この両地区を含めた約910ヘクタールの佐々木村南部水利組合は、昭和27年(1952)6月、北蒲原土地改良区佐々木事業所として組織変更され、昭和35年(1960)、佐々木土地改良区として独立しました。
 この地域は福島潟に接する低湿地であったため、米の生産性は低く、降雨による湛水被害が毎年発生し、農家の人々は毎年悩まされていました。

福島潟周辺の底平地で進められた土地改良事業

 福島潟周辺地域や阿賀野川右岸地域全体の排水不良を解消するため、国営阿賀野川農業水利事業(排水)が、昭和16年(1941)から始まり、区域内の基幹排水路(自然排水区:安野川、新発田川流域 機械排水区:新井郷川、福島潟流域(万十郎川、吹切川、奥衛右門川ほか、新井郷川排水機場(昭和29年:6台稼働、昭和36年:9台稼働)、長浦岡方等排水機など)等が施工され、昭和48年(1973)に事業完了しました。

救農土木事業で新設された佐々木南部排水路の画像
救農土木事業で新設された佐々木南部排水路

 この排水改良の進展に伴い、新井郷川の水位が大幅に低下し、2回目の基盤整備の気運が高まり、昭和37年(1962)頃から鳥穴、下興野集落などから区画整理事業の要望が出されていました。
 しかし土地改良区では、「この部分的な箇所だけで整備をした場合、今後の集落間の用排水連携が不具合となることから、佐々木南部地域全体での実施したほうがよい。」という方針を決め、当時、集落間で幾度もの協議、検討が繰り返されました。

 昭和41年(1966)7.17下越水害により、鳥穴・砂山及び太田集落の耕地が湛水し、収穫が全くなくなるという状態になり、救農土木事業で鳥穴排水路(佐々木南部排水路)を新設掘削しました。この工事を契機とし、昭和43年(1968)、農業の近代化を目指した県営ほ場整備事業佐々木地区(受益面積322ヘクタール)が着工し、昭和53年(1978)に完了しました。区画の大きさは、県内最初の40アール区画で、全区域に暗渠排水を施工し、佐々木南部排水機場を増強するなどの工事が行なわれました。

古太田川から取水する中道揚水機場周辺の画像
古太田川から取水する中道揚水機場周辺

 なお、昭和36年(1961)頃、土地改良区は地区内の用水確保対策として、阿賀野川用水の受入協議会と打ち合わせを進めていました。しかし、この区域の用水は「阿賀野川からの用水でなく、加治川により密接である」ということから、昭和45年(1970)、阿賀野川右岸土地改良区連合に区域除外を申請し認められました。

 結果として、現在は国営加治川沿岸農業水利事業(用水)(昭和39年~昭和49年)区域は、土地改良区管理面積のうち、約2割となる170ヘクタールが加治川からの用水に依存しています。加治川第1頭首工から取水された用水は、米倉・法正橋・池之端・大伝・西蓑口地域を流下し、乙見江支線・乙見江用水路から南部事業地区で1号支線用水路に名称を変え、現在実施している県営ほ場整備佐々木南部郷2期地区の飯島地域約130ヘクタールの耕地を潤しています。
 残りの約40ヘクタールは、太田川右岸側の佐々木小学校付近の則清新田の耕地で、米倉・荒町・北簔口地域を佐々木江支線・西江用水・新田用水路と名称を変えながら、用水末端となるこの地域へ用水が加治川から配水されています。

排水路や河川からの用水

下興野集落内を流下する古太田川の画像
下興野集落内を流下する古太田川

 加治川からの用水取水をしない土地改良区の耕地(佐々木駅周辺~下興野・太田新田集落~福島潟周辺:中道、鳥穴、砂山集落周辺)は約590ヘクタールで、太田川にある下興野頭首工からの取水のほか、古太田川、万十郎川などから取水しています。

 昭和37年(1962)に国営事業により太田川(新発田川自然排水幹線)が改修される以前は、太田川を農業用水路として利用していましたので、その補償として下興野頭首工ほか、左岸幹線用水路などが新設されました。これら施設の管理は、佐々木土地改良区だけでなく、隣接する葛塚土地改良区と共同管理されています。
 なお、この下興野頭首工は、昭和52年(1977)に安全・確実な操作となるよう、県営事業で油圧ワイヤー式から電動スピンドル式のローラーゲートに改良されたほか、左岸幹線用水路も不等沈下による漏水を防止するため、施設整備(S55~S58)事業により改修が行われました。

太田川に国営事業で設置された下興野頭首工画像
太田川に国営事業で設置された下興野頭首工

 現在、佐々木土地改良区管内では、昭和53年(1978)に完了したほ場整備:佐々木地区で取り組めなかった耕地(佐々木南部A=128ヘクタール、佐々木南部2期A=196ヘクタール)の大区画ほ場整備が平成28年度に完了しました。また、県土木部や農林水産省による福島潟周辺の治水・排水対策も進められ、国営附帯県営として県農地部では、万十郎川、佐々木南部排水機場、佐々木南部排水路、吹切川などの再整備を進めています。

下興野頭首工と史跡:丈右衛門橋

太田川下流から望む下興野頭首工の画像
太田川下流から望む下興野頭首工

 古くから、福島潟周辺は、低湿地帯であったことから、優先的に排水改良を行う必要がありました。また一方で、耕作には多量の用水が必要で、その水源はここより下流の太田川にあった3カ所の簡易な草堰から取水していました。
 昭和37年(1962)、国営阿賀野川沿岸農業水利事業(排水)により太田川改修と併せて、新たにこの下興野頭首工が設置されました。

頭首工の脇に設置されている史跡丈右衛門橋の石柱画像
頭首工の脇に設置されている史跡丈右衛門橋の石柱

 享保15年(1730)に信濃川と一緒になっていた阿賀野川河口を現在の新潟市松ヶ崎で直接日本海切り落としたことで、福島潟の水位が約2m低下し、多くの新田が生み出されました。宝暦5年(1755)には、福島潟開墾の功労者で当時の著名な土工家「山本丈右衛門」が江戸幕府より開発許可を受け、開墾工事に着手します。

 その手ほどきとして加治川の支流で福島潟に流入していた太田川を下興野手前で堰き止め、新太田川を掘って新発田川に吐き出させ、そこに記念して架けた橋がこの「丈右衛門橋」と言われています。
 以来、明治から昭和の水利・治水事業の変遷の中、昭和29年(1954)に新井郷川排水機場が一部稼働したことにより、現状に近い耕地になり安定した農業経営が営まれるようになりました。

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