ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 組織でさがす > 新発田地域振興局 農村整備部 > 【新発田】農業水利施設百選:阿賀野川頭首工から導水する3大幹線用水路

本文

【新発田】農業水利施設百選:阿賀野川頭首工から導水する3大幹線用水路

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0058230 更新日:2019年3月29日更新

阿賀野川頭首工から取水する右岸幹線、福島潟西部幹線、新江幹線用水路

幹線用水路のイメージ
副読本:わたしたちの阿賀野市(阿賀野市教育委員会)より引用

 阿賀野市や新潟市北区及び新発田市の水田を潤す用水は、阿賀野市小松地内にある阿賀野川頭首工から取水しています。
 頭首工から取水された用水は、小松隧道を流下して右岸幹線用水路、新江幹線用水路、福島潟西部幹線用水路の3大幹線用水路に分岐し、各地域の水田に配水されます。
 これら施設は、昭和38年~平成3年にかけて国営・県営事業により、以前あった南耕用水や新江用水を新設または改修され現在に至っています。

南耕用水(右岸幹線用水路、福島潟西部幹線用水路)の成り立ち

当時の南耕隧道工事現場のイメージ
当時の南耕隧道工事現場の様子

 大正末期、阿賀野市地内の耕地は、未整備の水田や低湿地に加え、畑地さらには山林原野などが混在し、用水は五頭山系からの山水のみで、毎年のように水不足が発生し、また豪雨時には水田がすぐ冠水するなど生産が上がらなかったことから、農村は疲弊していました。
 これを解消するため、人々は北蒲原郡南部耕地整理組合を設立し、850ヘクタールの開田や1,800ヘクタールへの補水を目的に、昭和2年(1927)、7月から用水工事を始め、南耕隧道も含め、12年の歳月をかけて、延長約33キロメートルもの南耕用水が完了しました。

幹線用水路を分流する水原分水工のイメージ
幹線用水路を分流する水原分水工(左:昭和初期、右:現在)

 戦後、食糧増産運動もあり、この地域の未整理地約2,650ヘクタールの区画整理事業が本格的に計画され、北蒲原郡南部土地改良区が主体となり、昭和25年(1950)に工事着手し、昭和35年(1960)に工事完了しました。

左:西部幹線用水路と右:右岸幹線用水路の画像
左:西部幹線用水路と右:右岸幹線用水路

 しかし、難航に難航を極めた南耕用水も阿賀野川の河床低下や河状が変化したことから、計画取水が困難となり、地域では夜水引きや水争いが繰り返されるようになりました。この解消に向け、昭和38年(1963)から阿賀野川用水農業水利事業で南耕用水路を改修し、山の手川、水原線が右岸幹線水路、福島潟西部幹線水路と名称を変え、現在に至っています。

新江幹線用水路の成り立ち

阿賀野川のイメージ図
副読本:わたしたちの阿賀野市(阿賀野市教育委員会)より引用

当時あった新江取水口と南耕用水取水口イメージ
当時あった新江取水口(左)と南耕用水取水口(右)

 新江用水の開削は、享保15年(1730)、松ヶ崎の阿賀野川分水路開削の結果、翌16年の雪解け水により両岸が決壊し、川幅が広がり、河床が低下し、阿賀野川から直接取水していた村々(新発田藩岡方組:安田、分田、堀越、京ヶ瀬、岡方)は、用水の取水ができない状態となり、水が無く困っていました。
 新発田藩岡方組は、幕府に阿賀野川上流からの用水取水を願い出て、享保18年(1733)にようやく許可され、翌年から新江用水33kmの工事が始まりました。なお、周辺関係村々へは、「水路開削により被害を与えた場合は、損害を補償する。」という契約条件を交わし了解をとりました。

旧新江取入口のイメージ
旧新江取入口の様子

 この用水は阿賀野市渡場付近から取水し、取水口保田付近では旧用水の廃江跡を利用し、分田付近より下流は以前あった流路を再掘削し、享保19年(1734)12月に竣工しました。
 しかし、この取入口も阿賀野川の水流が変化し、自然取り入れが困難となったことから、寛延元年(1748)にその上流400mに2カ所の取水口(1の樋、2の樋)が設置されましたが、2の樋は昭和元年(1925)に廃止されました。
 昭和14年(1939)頃から新江用水1の樋は、阿賀野川上流の発電所建設などにより、河床低下や土砂堆積が発生し、渇水期には取水ができなくなりました。このことから、国直轄工事として昭和23年(1948)に、その上流の赤坂山の出鼻に新しい取入口を完成させました。

現在の新江幹線用水路のイメージ
現在の新江幹線用水路の様子

 新江用水路はその後も改良に改良を重ねて、昭和29年(1954)、国営新江農業水利事業が完了し、その下流部は国営付帯県営新江用水改良事業として引き継がれ、阿賀野市寺社付近より下流約45kmの流路を昭和40年(1965)までに完成させました。

新江幹線用水路のイメージ2
新江幹線用水路の様子2

 しかし、昭和24年(1949)以降利用されていた赤坂山の取水口は、その後の阿賀野川の水位変動と区画整理事業により、用水不足が発生し、抜本的な対策が望まれていました。その当時、阿賀野川の左岸側の新潟市秋葉区、五泉市を含めた全体約16,800ヘクタールのかんがい用水改良を目的とした阿賀野川頭首工(国営阿賀野川用水農業水利事業)が工事中で、新江用水から取水する農家の人々はこの頭首工からの取水を望み、昭和42年(1967)、阿賀野市六野瀬地内に新たな連絡水路を造成し、新江用水の上流部に接続し、通水が開始されました。
 この阿賀野川頭首工の完成により、赤坂山にあった新江用水取入口とその上流小松地内にあった南耕用水取入口は統合されました。
 新江用水は、昭和39年(1964)の新潟地震やその後の下越・羽越水害などで、ブロックや石積み用水路が崩壊、漏水を繰り返していたことから、国営阿賀野川用水事業に編入し、約27kmの用水路を三面張コンクリートに改修し、現在に至っています。

新発田管内の農業水利百選のトップページへ

<外部リンク> 県公式SNS一覧へ