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長岡地域の小国町土地改良区を紹介します。

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0053588 更新日:2019年3月29日更新

土地改良区は、

  • 農業生産を行う上で欠かせない用排水施設の整備・管理や農地の整備を目的として設立された農家の組織です。
  • 国土の保全や美しい農村景観など多面的機能を持つ大切な資源である農地や農業用水を次世代に引き継ぐ役割を担っている組織です。

小国町土地改良区管内の画像
おぐに森林公園から望む延命寺ケ原の様子

夏に行われたかかし祭り画像その1
夏に行われたかかし祭りの様子その1

夏に行われたかかし祭り画像その2
夏に行われたかかし祭りの様子その2

小国町土地改良区の概要

 昭和29年12月、小国村土地改良区は、農地の基盤整備を推進するために約550ヘクタール、組合員971名からスタートし、昭和33年上小国地区、千谷沢地区を合併し、小国町土地改良区となりました。その後、小坂部落が三島郡越路町(現長岡市)に合併したことから面積は減り、現在1,055ヘクタール、組合員1,771人を有する土地改良区です。土地改良区は、揚水機場20カ所、堰1カ所、用水路50.1kmの農業用施設を管理しています。

小国町土地改良区域の画像
小国町土地改良区の区域図

戦後から現在までの農業基盤整備のあゆみ

小国地域の画像
小国地域の耕地の様子

 昭和24年、中里村・横沢村・武石村・七日町村が合併し、小国村が誕生しました。当時、戦後の農地改革が行われ、農民は農地の生産条件を整備し、農地利用の高度化を実現するため土地改良事業を望んでいました。
 改良事業施行前の小国は、水稲を主体としていましたが、用水施設はもとより、耕作道らしきものは1本もなく、肥料の運搬、秋の収穫にいたるまで人肩に頼るのみでした。また、用水はすべて渓流を利用していましたが、どの水路も用排水兼用で、まがりくねって延々と続き、きわめて効率が悪く、しかも水の無駄が多い状況でした。
 この悪条件を改善すべく、昭和30年小国地区から始まった土地改良事業は、上岩田、千谷沢地区と次々に実施され、用排水路や耕作道が完備し、合理的な農業経営が可能となりました。
 近年機械の大型化とパイプ灌漑と完全暗渠を目指し、小国地域全域で大区画ほ場整備が進んでいます。

小国地域における近年のほ場整備事業の取組

地区名 実施年度 面積(ヘクタール)
小国中部 平成4年~平成9年 42ヘクタール
小国東部 平成7年~平成11年 25ヘクタール
千谷沢 平成9年~平成16年 82ヘクタール
横沢 平成10年~平成15年 44ヘクタール
中里南 平成13年~平成20年 47ヘクタール
中里北 平成14年~平成22年 55ヘクタール
小国北部 平成15年~ 33ヘクタール
小国西部 平成19年~ 27ヘクタール
上岩田 平成23年以降 58ヘクタール

小国町土地改良区が管理する揚水機場

渋海川から取水する揚水機場の画像
設置から40年~50年が経過し、老朽化しつつある揚水機場

耕地へ送水するためのポンプ場の画像
耕地へ送水するためのポンプ場(間伐材使用)

 地域の農業用水は、ポンプによる渋海川からの揚水区域と渓流から用水取水する区域があります。取水した用水は、地区内に網の目のように配置された管水路や開水路を流れ、水田に供給されます。

小国地域は、史跡がいっぱい!

小国氏の石碑の画像
延命寺ケ原にある小国氏の石碑

相野原観音堂の画像
まわりに耕地が広がる相野原観音堂

 中世の頃、小国町一帯は「小国保」と称され、公領・国衙領でした。この「小国保」の開発に努めたのは小国氏でした。
 鎌倉に源頼朝が幕府を開くと小国氏の頼継は有力御家人として小国保地頭に補任されました。
 その後、蒲原方面の領地経営のため、本拠を岩室の石瀬に移しましたが、一族をこの地に残し、小国の開発・発展に尽しました。
 南北朝時代には、小国政光が越後南朝軍の総帥として大活躍し、戦国時代には小国頼村、小国重頼等が上杉謙信の支配下で有力家臣として重要な位置を占め、上杉景勝時代に「大国」と改名しましたが、家系は綿々と続き、現在に至っています。(碑文参照)
 平成15年、小国氏の居城跡と推定される小国城趾の近くに碑がたてられました。

森光集落では、かんがい用水を取水するため明治20年代に水路トンネルが掘られました。

森光集落にある疎水碑の画像
森光集落にある疎水碑の様子

水路トンネルのイメージの画像
水路トンネルのイメージ図

 森光集落の山麓には田沢川が流れていますが、当時、地形の関係で森光集落に直接用水を導水することが出来ませんでしたので、小栗山集落を経由して農業用水を導水していました。
 しかし、毎年のように水不足で悩まされていたことから、これを解消しようと小島三郎ほか同志8名は、水路トンネルL=370mを計画し、明治27年8月に完成させました。森光集落は、これにより水不足の苦労を免れることが出来ました。
 その後、隧道のあちこちに崩落決壊が続いたことから、集落では大正8年から10年にかけて水路トンネルを鉄筋コンクリートで補強しました。
 昭和7年、この先人の徳に感謝し、後々まで伝えようと疎水碑が森光神明公園に建立されました。(参考文献:高橋実「小島三郎 水路トンネルを掘り森光疎水を完成」(「郷土長岡を創った人びと」、長岡市発行)

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