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【上越】「上越地域における新田開発のあゆみ(用水編)」 を紹介します

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0046778 更新日:2019年3月29日更新

(2) 上江用水

関川から取水する板倉取水堰堤の画像
関川から取水する板倉取水堰堤

 上江用水は、妙高市川上地内の関川から農業用水を取水し、高田平野の耕地約2,600ヘクタールを潤す流路延長約26kmの用水路です。開削当時、人々は耕地が水路によってつぶされることを恐れ、東方山麓の小高い丘陵地に沿って水路が開削され、途中で大熊川・別所川・櫛池川・飯田川の川底を横断しています。
 この用水路は、平成27年(2015)10月に県内で唯一、初めて世界かんがい施設遺産「上江用水路」として登録されました。平成28年現在、世界で47ヶ所、日本では27ヶ所登録されています。建設から100年以上経過し、かんがい農業の発展に貢献したもの、卓越した技術により建設されたものなど、歴史的・技術的・社会的価値のあるかんがい施設として登録されました。

第1期:富里久八郎

山裾を流れる上江用水路の画像
山裾を流れる上江用水路

 上江用水の開削は天正年間(1573~1592)ともいわれ、江戸時代の現存文書によると、第1期は正保年間(1644~1648)で、吉木村久八郎(富里久八郎)、西条村七兵衛、同仁右衛門、新保村惣左衛門の4人の農民が吉木新田開発のために領主に願い出て、農民自らが小用水路(幅約60cm)の工事を行ったといわれています。
 この水路の水量が豊富なことから、下流の五か村(吉木・山越・熊川新田・熊川、米増)の人々は、寛文期(1663~1673)頃に上流の拡幅工事も含めて約4kmの用水の掘継ぎ工事を行いました。
 この頃に、「これまでの上流の用水利用者が自由に水を取水できる保証」と「これまでの用水負担を下流の者が引き受けることが条件」とした用水取引、いわゆる「客水」が始まったといわれています。

第2期:清水又左衛門

上江用水路画像その2
集落の中を流下する上江用水路

 その後、干ばつや渇水に苦しむ周辺の村々から更なる用水掘継ぎの要望が幕府に提出され、元禄6年(1693)頃に、上流の妙高市川上地内から板倉区山部地内までの水路改修と別所川を越え櫛池川までの区間で、用水路幅を広げる工事(0.9m~1.2m→約3m)が行われました。
 板倉区高野の庄屋清水又左衛門は、この元禄掘継ぎ許可の功労者で工事の総責任者でもありました。清水家には、先祖又左衛門を形どったと思われる宝暦2年(1752)と刻まれた石像が大切に祭られています。

第3期:下鳥冨次郎

633mの水路トンネル(三丈掘)の画像
633mの水路トンネル(三丈掘)

この掘継ぎ工事が別所川を越えた頃、新たな新田開発で用水不足に困っていたその下流の人々(櫛池川右岸の岡野町~飯田川を越えた三和区~保倉地内)は、掘継ぎ工事を再三にわたって幕府に要望しました。しかし、上江用水上流の人々や関川からの水源を共にしている中江用水の人々から、自分たちの用水が枯渇することを恐れて反対し、実現しませんでした。
安永4年(1775)に祖父(源助)や父の思いを引き継いだ三和区川浦の下鳥冨次郎や岡木の忠右衛門・田村平吉らの努力により、80年の歳月を経てようやく幕府から許可され、安永6年(1777)に工事が完了しました。
しかし、この工事は苦難の連続で、上流の古江の修復を行ったほか、山麓の迂回や川の横断など約4.3kmにも及ぶ新江が開削され、当時の技術では大変な工事でした。特に清里区岡野町の三丈掘は難工事で、岡嶺丘陵地から櫛池川を通過するまで、深さ9m(3丈)・幅1.8m・長さ633mを掘る工事には莫大な費用を要し、冨次郎自身が私財を投じ、工事を完成させました。人々は、一命を賭けて完成させたこの業績を後世に伝えるため、文化14年(1817)に三和区川浦地内の上江北辰神社に翁を祀り、毎年7月17日の祭礼には地域の人々は農作業を休んで、翁の偉業を偲んでいます。

飯田川をくぐる上江用水路の画像
飯田川をくぐる上江用水路

 その後、用水路の延長工事は続き、天明元年(1781)に飯田川の川底横断工事、文化11年(1814)頃までに、更にその下流となる下広田・広井・長岡・五野井・小泉地域への残水を利用した水路が開削されました。
 なお、文化4年(1807)には、用水最上流部の川上地内で水路の流れを良くするために延長約185mの川上隧道開削工事が行われたほか、戦後まで数多くの用水路改修工事が行われました。
 昭和24年(1949)、戦後の食糧増産運動で用水が不足する状態となっていたことから、人々は上江用水路の県営改良工事を要望し、取水口より約13kmの区間は石積護岸を施工し、大熊川・別所川・飯田川などに伏越工を設置するなど、漏水・溢水・法面崩壊防止に努め、昭和36年(1961)に完成しました。

 その後、国営関川農業水利事業(昭和43年~昭和58年)で新規水源となる笹ヶ峰ダム建設が行われたほか、上江用水路などの幹線用水も国営事業や附帯県営(昭和48年~平成1年)事業で改修されました。
 なお、平成24年(2012)3月に板倉区国川地内で地すべりが発生し、上江用水路が被災を受け、直後に迫った農繁期の用水供給が危ぶまれましたが、関係機関の迅速な連携により仮廻し水路を完成させ、下流域2,100ヘクタールの稲作経営が確保され、翌年4月に用水路が原形に復旧されました。

平成24年3月に発生した国川地内の地すべり画像
平成24年3月発生、国川地内の地すべり

復旧された上江用水路画像
復旧された上江用水路

浅野用水

現在の隧道の様子画像
浅野用水の手掘隧道(幅1m×高さ1.2m程度)

 上江用水取水口がある妙高市川上地区には、江戸時代に住民の手によって掘継がれた、水田25ヘクタールを潤す延長約3kmの浅野用水があります。用水は上流の下濁川集落から取水し、途中の巻淵では手堀隧道(約170m)となっており、当時「無断で隧道を掘った。けしからん。」として、水を巡る騒動もありましたが、近年、崩落・崩壊の危険があることから、現在、県営事業で新たな隧道工事を進めています。

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