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新潟港の概要

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0054435 更新日:2019年3月29日更新

新潟港について説明します。

新潟港の港湾区域

 新潟港は、信濃川河口の西港区(新潟市中央区、東区)と掘込港である東港区(新潟市北区、聖籠町)の2つの港区で構成されています。
 港湾区域は、新潟港西区西防波堤灯台(現在の西突堤灯台)(北緯37度57分21秒、東経139度4分19秒)から222度4,000メートルの地点、同地点から340度4,000メートルの地点、北蒲原郡聖籠町字次第浜三角点から320度4000メートルの地点、及び次第浜三角点を順次に結んだ線と陸岸により囲まれた海面並びに新潟市流作場字下島(現在の新潟市中央区万代島)2529番地及び同市沼垂字牛街道(現在の新潟市東区臨海町と臨海町2丁目)の各地先水面、信濃川万代橋及び通船川山の下橋の各下流の河川水面です。(昭和39年4月7日公告)

新潟港の沿革

 新潟港は、信濃川の河口にあって、平安時代(920年代)から蒲原津(かんばらのつ)として知られ、米を中心とした諸物資の集散が多くみられると記録されています。江戸時代には、大型船が出入りできる天然の良港として、交易上重要な位置を占め、繁栄を極めていました。
明治元年11月19日(西暦では1869年1月1日)、五港(箱館、新潟、神奈川、兵庫、長崎)の一つとして、外国に向けて開港しました。
大正6年(1917年)ふ頭築港工事に着工、大正15年(1926年)完成により、近代港湾としての機能が整備され、日満航路を中心に最盛期には取扱貨物量270万トンに達する隆盛をみました。しかし、第二次大戦により港は荒廃し、大戦末期には廃港寸前に追い込まれました。戦後の新潟港は、荒廃した港湾施設の修復を進め、外航船の入港隻数、取扱貨物量ともに順調な増加を示していましたが、昭和39年(1964年)6月16日に発生した新潟地震(マグニチュード7.5)により総額216億円におよぶ壊滅的な被害を受けました。
 その後、国の激甚災害法の適用を受けた修復工事の完成と日本石油、昭和石油両製油施設の拡充や対岸貿易の進展等により、昭和42年(1967年)6月1日には、日本海側初の「特定重要港湾」に指定されるまでに復興を遂げました。
 また、東港工業地帯の核として、昭和38年(1963年)に建設着工した東港区は、昭和44年(1969年)11月19日に開港しました。現在では年間約1,000万トンのLNGを受け入れるなど、日本海側最大のエネルギー基地となっているほか、対岸貿易の進展に対応するため、コンテナ用大型荷役機械などを整備し、コンテナ搭載貨物の輸出入の促進に努めています。
 近年の新潟港は、平成7年(1995年)6月に国の長期港湾政策の中で日本海側唯一の「中核国際港湾」に位置づけられるとともに、平成8年(1996年)3月には輸入促進地域(FAZ)の承認を受けました。また、平成23年(2011年)には、国際拠点港湾に指定されました。特に、東港区において、コンテナターミナル、定温庫、くん蒸庫など日本海沿岸地域における国際物流拠点機能を拡充整備しています。
 また、西港区は、港湾施設の外内貿機能強化はもとより、交流拠点空間等の施設整備を進め、憩いの場としての環境を整えています。これらを併せ、多様な機能が調和連携し、躍進する国際交流拠点を目指しています。

新潟港港湾計画

新潟港港湾計画を平成27年(2015)3月に改訂しました。詳しくはこちら。

新潟港港湾計画(2015年3月改訂)(港湾整備課のページへリンク)

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