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買若梅(マイ・ロアメイ)さんの佐渡レポートvol.8

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0056303 更新日:2019年3月29日更新

 中国出身、佐渡在住の買若梅(マイ・ロアメイ)さんによる佐渡レポートを掲載しています。
 第8回目のテーマは「流人の島-佐渡」です。

流人の島-佐渡

真野御陵の画像
真野御陵

 佐渡が島は、ごくありふれた離れ島の一つに過ぎないが、歴史的な面から言えば、流刑地の一つであったことから「流人の島」と呼ばれます。
 日本の古代の律令制は、中国の唐朝の制度を手本として作られたから、刑罰もまた同様です。死・流(る)・徒(ず)・杖(じょう)・笞(ち)で、これらを「五刑」といい、流刑は、死刑に次ぐ重い刑です。古代日本の律令制度の流刑は、京都が拠点で、そこからの距離で「遠流」・「中流」・「近流」の地が決められました。
 佐渡は、京都からの距離も遠い、日本海の孤島です。そこで神亀元年(724年)に正式に「遠流(おんる)」の地の一つとなりました。これらの制度は歴史上長い間続き、皇族貴族と武士の権力争いの中で、政治的に犠牲になった貴族をはじめ、名高い人々が佐渡に流されました。宗教家の日蓮上人、能楽師の世阿弥、順徳天皇はことに有名です。順徳天皇が佐渡に流されたのは25歳のときでした。

順徳上皇 山本修巳氏所蔵の画像
順徳上皇 山本修巳氏所蔵

 順徳天皇は後鳥羽天皇の第三王子で、生来賢く明朗な性格で、幼少のころから学問を好み、詩歌を学び、後鳥羽上皇からことのほか深い愛情を受けて育ちました。
 父親の考えによって1210年、長兄の土御門天皇(83代)のあと14歳で皇位を継承しました。年少ではあったものの政治に強い関心を持ち、鎌倉幕府から政治権力を朝廷に取り戻そうとした父親(後鳥羽天皇)の計画に参画しました。
 1221年、皇位を4歳の息子(仲恭天皇)に譲り、鎌倉幕府打倒に立ち上がりました。けれどもこの戦いは、諸国からの軍勢が集まらず、後鳥羽天皇が期待したようにはなりませんでした。幕府軍は都に進入し、朝廷軍は敗れ、朝廷側の敗北に終わりました。この戦いが承久3年であったことから「承久の乱」といわれます。戦いの後、親子三人は、島流しの運命にあいます。
 順徳上皇は傷心落胆のなか、少人数の随員とともに京都を出発しました。長い道のりを経てようやく佐渡に到着しました。最初に到着したところは松ヶ崎港だと言われます。以来、佐渡において順徳上皇の伝説が各地に残されています。

松ヶ崎の画像
松ヶ崎

 当時、佐渡の人々は順徳上皇の本当の身分を知りませんでした。歌を詠み、仏道に精進する順徳上皇を見て、京都から来たお坊さんだと思い、「順徳坊さん」・「順徳老僧」と呼んでいました。
 佐渡市両津地区の大川というところに一つの伝説があります。ある日、粗末な身なりのお坊さんがこの地にやってきました。彼は、土地の老人に「海上の岩に行ってみたい」と頼みました。そこで、老人は小舟を出して岩に連れて行きました。
 岩に到着し、舟から降りようとしたとき、お坊さんはうっかりして、刀を海に落としてしまいました。彼は、たいへん落胆して「ああ、なんてことだ。大切にして身につけていた刀を海に落としてしまった。沈んだ刀もきっと、この鞘に帰りたいと思っていることだろう!」と天に向って歌を詠んだといいます。
 すると突然、海水が渦を巻き海底から竜王が現れ、刀を拾い上げてくれたそうです。お坊さんは帰るとき、お礼にその刀を老人にあげました。後でこのお坊さんが順徳上皇だと分かった老人は、その刀を家宝にしたそうです。

佐渡の海の画像
佐渡の海

 順徳上皇は過ぎ去った都のことを忘れるようにしました。しかし、天皇だったころのことが思い出され、都を恋しく思う気持ちが湧き上がります。そこで彼は一人になると、いつも御所の庭に咲く小菊の花を見て自らを慰めました。かわいい小菊の花を見て、都のことを忘れるようにしました。「あずまぎく」(ヤグルマギク)の名前が「都忘れ」となったのはこのことに由来するといわれます。
 また、ある年の中秋、二見というところの池のほとりでお月見をすることになりました。しかし、その日は雲が多く、とうとう(池に映る)お月見ができませんでした。都のことが思い出されて順徳上皇は、そのときの情景を「ああ、月よ。おまえも見る面影がないほど変わってしまったのか。都を思う悲しい涙をたくさん袖に流し、衣服も古ぼけてしまい、私も変わってしまったよ。」と歌に詠んだそうです。その後、島の人々はこの池を「月見ずの池」と呼ぶようになりました。

御所桜の画像
御所桜

 順徳上皇には、二人の女の子と一人の男の子がいました。しかし、子供の母親のことは不詳です。佐渡市金井地区の尾花崎というところにこのような言い伝えがあります。この地に「はな」という大変美しい女性がいました。順徳上皇は度々彼女のもとを訪ねたので、後に、人々は「花塚」という記念碑を立てたそうです。
 順徳上皇は、佐渡へ流刑の身となっても、都へ帰るという夢を持ち続けました。しかし、日々刻々と時は過ぎ、その夢はとうとう実現しませんでした。父や長兄の死後、自分の息子に皇位を継がせる要求を出しましたが拒絶されます。すべての希望を失い、1246年の秋、絶食により46歳で自害しました。火葬の後、上皇の遺骨は京都へ送られました。

黒木御所の画像
黒木御所

 順徳上皇の佐渡の生活は22年です。しかし、この間の正確な記録は残されていないそうです。ただいくつかの伝説や順徳上皇の生活の足跡から推測されたものが伝えられているのだそうです。とはいえ、順徳上皇が佐渡で生活したことは歴史上の事実です。順徳上皇は「佐渡院」とも「順徳院」とも呼ばれ、「順徳院歌集」があります。その中の一首が、日本では有名なカルタの「百人一首」にも入っています。

花塚の画像
花塚

 数百年過ぎ去った今日、わたしは順徳上皇の足跡をたどってみようと思い立ち、最初に松ヶ崎港に行きました。当時、佐渡に流された人の多くはここから上陸しました。無論、今では港の周囲はよく整備され、とてもきれいですが、往時はそうではなかったでしょう。海岸に打ち寄せる波が悲しい歴史を語っているように思われます。港の背後の山は、屏風のように切り立っています。順徳上皇はじめ、当時の多くの流人は、どのような思いで上陸したのでしょうか。

金北山の画像
金北山

 私は松ヶ崎港のあと、海岸沿いに小木というところへ向いました。小木には、ある寺院の庭に順徳上皇のお手植えの桜の木があると聞いていたからです。今は早いけど、季節になると毎年、とても美しい桜の花が咲くそうです。小木は佐渡の最南端です。
 私は小木の次に真野へ向いました。真野には順徳上皇が火葬された「真野御陵」があります。陵墓の周囲は四角に囲われ、背の高い樹木が生い茂っていました。当時の人々は、ここで一代の皇帝が一生を終わったことを知っていたのでしょうか。私が訪ねたときは、強い風の日でした。木々の間を吹き抜ける風たちが昔の悲しい話を会話しているようにさえ感じられます。
 最後に金井地区にある「黒木御所」に行きました。ここは順徳上皇がかつて住んだ所といわれます。御所の背後には金北山がそびえています。時代がどんなに変わろうと風景は変わりません。金北山こそ順徳上皇がどのように過ごしたかを知っていることでしょう。

佐渡の青い空の画像
佐渡の青い空

 佐渡は自然豊かな美しい島です。しかし、流人たちにとっては「この世の地獄」の存在だったことでしょう。とはいえ、都の時のように贅沢ではなくても、島の中では自由に生活し、島人とともに過ごすことができたのでしょうか。
 流人たちは「都の文化」を佐渡に伝え、いろいろな文化を残しました。数多くの伝説や史跡が残されていることは、佐渡の人々が彼らを忘れないというしるしです。佐渡の人々が彼らを忘れないと同じように、彼らもまた佐渡を忘れないことでしょう。

日本語翻訳: 雑賀三郎
参考資料: 「佐渡の順徳院と日蓮」山本修之助、「佐渡流人史」郷土出版社、「大川のむかしの話」

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