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織物文化の発祥
雪の中での暮らし
雪国の暮らしは自然環境に応じた知恵や用具をもたらしました。雪のない季節には狩りや耕作を行い、積雪によって屋外での生活が制約される時期には機織りや藁仕事を行う知恵が生まれました。
約1,200年前(奈良時代)の暮らしのようす
縄文時代からあったと考えられているカラムシなどの植物繊維を利用した衣服は、やがて豪雪地の十日町周辺で全国的にも良質な越後布として進化を遂げていきます。
その進化にはこの土地特有の水にまつわるいくつかの理由がありました。まず、冬季間の雪に閉ざされた生活が機織り仕事に集中できたこと。そして、盆地特有の多湿な気候が製織に必要な安定した湿度を保つのに適していたこと、また、雪面に織り上げた布を漂白する「雪晒し」や雪解け水からなる豊富な軟水が染色に最適だったこと。さらに、織物が高価な割に軽量であったことで信濃川の水運を利用した輸送に最適な産業であったことなどが十日町地域ならではの特産品として徐々に世の中に認められていくことになったのです。
越後縮の時代
江戸の始め頃、越後布に改良が加えられ、越後縮が誕生しました。高品質の織物として名声を得た越後縮は武士の式服になったこともあり、需要が高まりました。十日町には縮市場が開設され、江戸・京都・大坂をはじめ各地の商人が集まりたいへん賑わいました。
江戸幕府御用縮 越後縮
越後縮から絹織物へ
江戸時代後期には高機の技法が伝えられ、明治以降、明石縮が生み出された後、十日町の生産の主流となりました。また、昭和初期には秋冬物の絹織物も開発され、さらに、きものの需要が普段着から高級品へと移行したことに伴い、多彩な模様の表現が可能になる後染織物にも対応していったのです。
現在の十日町の織物は、伝統的工芸品に指定された「十日町絣」「十日町明石ちぢみ」に代表される先染と、「振袖」「訪問着」に代表される後染の技術の両輪を併せ持つ全国屈指のきもの総合産地となっています。
十日町きものまつり
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