このページの先頭です メニューをとばして、このページの本文へ
新潟県ホーム の中の農林水産業の中の【新発田】農業水利施設百選:桜花 水面に映える派川加治川のせせらぎ水路
本文はここから

【新発田】農業水利施設百選:桜花 水面に映える派川加治川のせせらぎ水路

2013年12月26日
 紫雲寺潟(塩津潟)干拓が行われた頃、加治川の下流部は砂丘地に阻まれ、真野原付近で大きく左に曲がり、蓮潟から島見前潟、さらには阿賀野川に流れていました。新発田藩は砂で埋まりつつあった、この流れにくい水路の替わりとなる新たな水路開削を計画しました。
派川加治川があった今のイメージ画像

 享保12年(1727)、真野原より少し下流の二ツ山の砂丘地を開削し、聖籠町蓮潟新田、新潟市白勢町、松栄町などの南浜地域を流下し、阿賀野川に直接流す水路を開削しました。(二ツ山開削)
 この加治川(現在の派川加治川)は、上流域の排水を集水し、下流域では大切な用水路として利用されていました。大正3年(1914)、上流の洪水対策として、加治川分水路4.9㎞が真野原新田から次第浜の日本海まで開削し、運河水門4基と分水路側に土砂吐水門4基が設置されました。平常時は土砂吐水門を閉鎖し、運河水門を開放することで、旧加治川(派川加治川)への農業用水の安定供給や舟運に必要な水深を確保しました。

派川加治川があった今の様子1

 派川加治川は、近年まで阿賀野川と繋がっていましたが、現在は昭和9年(1934)に開削された新井郷川放水路に繋がっています。なお、派川加治川は、昭和38年(1963)に始まった東港の建設に伴って途中分断され、現在に至っています。
 また、派川加治川は昭和49年(1974)4月、内ノ倉ダムの運用開始や加治川の河川改修、派川加治川の敷地を利用した国営加治川用水、附帯県営の用水路が整備されたことで、河川としての役目を終え、河川指定が廃止されました。

派川加治川があった今のイメージ画像

派川加治川があった今の様子2

派川加治川があった今のイメージ画像

 派川加治川は、その後、農村の混住化の進展による水質の悪化や不法投棄、病害虫の発生などのより、環境が悪化していたことから、平成7年(1995)、県営地域用水環境整備事業を導入し、地域住民への憩いと安らぎ、潤い空間を提供する工事(L=4.2㎞)を行い、平成24年(2012)に完了し、現在聖籠町、新発田市が管理をしています。
 また、東港により分断された下流の南浜地区では、平成19年(2007)~平成21年(2009)、同地区コミュニテイ協議会が、新潟市北区特色ある区づくり予算事業:豊かな自然(水辺)の保全と活用事業を活用し、周辺の整備がなされ、現在、環境整備協議会を設立し、川の環境保全活動を実施しています。 

派川加治川があった今の様子3

加治川分水路工事と派川加治川の歴史

 加治川分水路が完成したのは、大正3年(1914)で、真野原新田から次第浜の日本海に至る4.9㎞、幅109m~182mで砂丘地を開削、また分派地点には、加治川本川(派川加治川)に運河水門4基と、加治川分水路に土砂吐水門4基が設置されました。
 出水時は、運河水門を閉鎖することで加治川本川への洪水の流下を防止し、土砂吐水門の開放により加治川分水路を通じて、洪水(計画最大流量1,440m3/s)を海まで安全に流下させました。
加治川水門のイメージ

 江戸時代の1700年代初めまでの加治川は、真野原付近で右側の紫雲寺潟(塩津潟)に流れていたほか、一方で大きく左側に曲がり、島見前潟に流れ、阿賀野川から信濃川に合流し、新潟港で日本海に流れていました。
 享保6年(1721)、享保13年(1728)の長者堀(落堀川)の開削が行われ、紫雲寺潟(塩津潟)の干拓が始まりました。この干拓を進めるため、加治川の流入を締め切る工事(享保13年(1728):境川の締切)や紫雲寺潟の南側からに流入していた菅谷川を加治川に流すための瀬替えが享保17年(1732)に行われました。
 また、この境川の締切や菅谷川の瀬替により、加治川の下流域が増水・湛水するのを防ぐため、新発田藩は砂で埋まりつつあった蓮潟から島見前潟に流れていた川を、新たに阿賀野川に直接流す二ツ山開削を享保12年(1727)に行いました。
 さらに、新発田藩は享保15年(1730)、阿賀野川水位を下げるための松ヶ崎分水路の開削を行いましたが、翌年の雪解け水による洪水で分水路は大破し、阿賀野川の本流となってしまいました。
 これにより、阿賀野川の水位が大幅に低下したことから、新発田藩では新潟港の水を回復するため、その後小阿賀野川の開削や通船川(旧阿賀野川)の再掘削を行いました。

加治川水門の様子

昭和30年代の加治川桜の賑わいの画像(写真提供:志まや)
昭和30年代の加治川桜の賑わいの画像(写真提供:志まや)
 加治川の上流、岡田地内でも、明治22年(1989)遊水池を開発するため、岡田の瀬替が行われました。しかし、加治川下流部の排水改良を行っても、上流の瀬替え等もあり、加治川の真野より下流では水害が続いていました。このことから明治29年(1896)、加治川周辺の18ケ町村連名で、県に加治川分水路工事を申し出ました。途中、日露戦争(明治37年(1904)~明治38年(1905))もあり、明治41年(1908)5月起工し、7カ年の歳月と20万人の労力を費やして大正3年(1914)に完成しました。このとき、加治川分水路完成と大正天皇即位の記念として、堤防には6,000本の桜が植えられ、昭和41年(1966)の水害前までは「長堤十里、日本一の加治川の桜」としては賑わっていました。
 加治川放水路完成以降、昭和4年(1929) までにその上流、姫田川合流点6.5㎞区間について、断面を拡大する工事が施工されました。また、その上流の本川岡田までと支線の姫田川、坂井川については、締切橋まで堤防の補強などが行われましたが、各所で堤防の破堤、決壊による被害が発生していた状況で、昭和27年(1952)から中小河川改修事業が着手し、加治川改修が進められていました。

 この頃の加治川には、国営加治川沿岸用水改良事業は未着手であり、大小20個所以上もの堰・取水樋管があり、河川改修には大規模な取水施設の改修が必要であったことから、なかなか河川改修は進みませんでした。  
 しかし、この地域では渇水に困っていたこともあり、抜本的な用水改良を行うための計画も動きだしました。内ノ倉川に利水ダムを建設し、農業用水も渇水期に放流し、用水量を確保し、下流には第1、第2の統合頭首工を設置することで、従前にあった取水樋管も不要となることから、その総合施設の完成を待ちながら、加治川の河川改修を進める予定としていました。

加治川の水害の画像

加治川の水害の様子

加治川治水ダムの画像

 昭和41年(1966)7.17下越水害、42年(1967)8.28羽越水害により、加治川の治水計画が見直され、利水用の内ノ倉ダム計画に治水機能を持たせたほか、加治川の治水ダムの建設が行われ、現在に至っています。

加治川治水ダムの様子