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【新発田】農業水利施設百選: 要害山を背にする坂井川頭首工

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0058238 更新日:2019年3月29日更新

坂井川頭首工のイメージ
坂井川頭首工の様子

 江戸時代中頃まで塩津潟(紫雲寺潟)が広がっていた加治川右岸地域では、戦後に県営落堀川沿岸農業水利改良事業により、排水整備が行われ、周辺耕地では、区画整理や暗渠排水整備が進められていました。
 これにより用水量の増が必要に迫られていましたが、要害山の裾にある麓集落から取水していた一本樋取入口の坂井川は、年々河床が低下していたことや施設の老朽化により、十分な水量が確保できませんでした。

坂井川右岸用水路のイメージ
坂井川右岸用水路の様子

 約1,200ヘクタールを潤していたこの施設の抜本的改修を地域の人々は熱望し、昭和33年(1958)、県営坂井川右岸用水改良事業として採択され、新たにこの取水口下流に坂井川頭首工1カ所を設置し、幹線用水路2.1km、大樋用水路5.9km、新保小路2.7km、旧川用水路1.9km、附廻用水路0.6kmなど、昭和41年度までに全体延長13.2kmをコンクリートブロック等で用水改良を実施しました。

今泉川と分離された大樋用水のイメージ
今泉川と分離された大樋用水の様子

 坂井川頭首工は、この事業により洪水調整機能を持たせた可動堰に生まれ変わり、スムーズな用水調整が可能となりました。また、大樋用水はそれまで用排兼用水路でしたが、それを分離して、用水路と排水路が平行して流れる水路になり、生活雑排水の入らないきれいな用水となりました。

要害山の歴史

要害山の麓にある藤戸神社のイメージ
要害山の麓にある藤戸神社の様子

 要害山は、戦国時代まで佐々木三郎盛綱の直系加地氏の本城として隆盛を誇りましたが、上杉謙信の死後、景勝の時代となった天正15年(1587)、攻撃を受け廃城となりました。
 この麓にある藤戸神社は、佐々木加地氏の氏神となっており、佐々木盛綱が倉敷沖の藤戸の合戦のときに、敵を攻めるために渡る浅瀬の秘密が漏れないよう浦の男の命を奪い、その供養のために藤戸明神を創設した話の「藤戸」です。社殿には平四つ目の佐々木加地氏の家紋が付いています。

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