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【上越】「上越地域における新田開発のあゆみ(用水編)」 を紹介します

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0046760 更新日:2019年3月29日更新

(5) 大道用水・子安堰用水・戸野目川用水・富岡堰用水・源入堰用水

 関川下流の右岸地域の上越市子安・鴨島・稲田・戸野目・田野新田・源入地域を潤すこれら用水は、国営関川農業水利事業(昭和43年~昭和58年)で大きく流路・用水供給形態が変更されましたが、それ以前は長年にわたって、地域の農業用水・生活用水として利用されてきました。

国営事業が開始される以前の用水形態画像
国営事業が開始される以前の用水形態(事業誌関川より引用)

国営事業で整備された後の用水形態
国営事業で整備された後の用水形態(事業誌関川より引用)

大道用水

別所川で行われていた大道用水堰の小俵積みのイメージ画像
別所川で行われていた小俵積み(大道用水堰)

 流路が大きく変更(昭和59年)される以前の大道用水は、上越市長者町地内にある別所川に大道用水堰を設置し、用水路は下流約3kmにある櫛池川を横断し、樋場・上島・田野新田・大道福田地内の耕地約300ヘクタールを潤す延長約9kmの用水路でした。
 この用水は慶安元年(1648)までに開削が行われたといわれ、高田藩呉服町森家の源左衛門、上小町の樋口小左衛門らが自費で開発を主導したとされています。
 初期の取水口は、関川と別所川の合流地点付近にあったとされ、たびたびの水害で取水口が流出し、数回に渡り別所川の上流へ移転されたといわれています。江戸時代の終わり頃には、別所川の河床が上がり、多額の費用をかけて大規模な堰を作らなくてもよくなり、川の中に砂利俵を積み上げ簡単な堰止めを作り取水できるようになりました。

附帯県営で改修された大道用水路の画像
附帯県営で改修された大道用水路

 昭和5年(1930)には、砂利俵積み上げ用のコンクリート底盤が完成し、堰止め用の小俵約5,000俵を各集落に割り当てして、昭和58年(1983)まで毎年、小俵の設置・撤去を繰り返してきました。
 地域の生活用水や雨水排水にも利用されていた大道用水路は、国営事業で流路を大きく移行することとなり、不要になった水路跡地は、上越市街地の道路側溝や排水路に変更されました。

子安堰用水

国営事業で造られた子安頭首工の画像
国営事業で造られた子安頭首工

 子安堰用水はかなり古くからあったとされ、上越市新町地内の櫛池川を堰止め、子安・鴨島・稲田・四ケ所周辺の耕地約190ヘクタールを潤す用水でした。堰は洪水のたびに上新町・下新町地内を移動したといわれ、明治29年(1896)の河川法施行に伴い、大正4年(1915)から櫛池川改修が始まり、その2年後に草堰から鉄筋コンクリート堰(堰長82m、堰高6m、扉h3.5m×b1.5m×24門)に改修されました。
 この堰は、昭和55年(1980)に国営関川農業水利事業で自動開閉扉3門の近代的用水堰に変わり現在に至っています。
 この用水は、明治26年(1893)から旧新道村管理から子安堰普通水利組合の管理に変更され、昭和27年(1952)には大道郷用水組合と一緒になり新道土地改良区が設立され、管理を行ってきました。

国道18号バイパス脇を流下する子安幹線用水路の画像
国道18号バイパス脇を流下する子安幹線用水路

 その後、国営事業計画が検討され、合理的な水配分を行うという立場から土地改良区に2つの案が示され、どちらかに決めるよう示されました。第1案は「別所川・櫛池川の残水は全く利用せず、直接中江用水から分流する案」、第2案は「中江用水から櫛池川に用水を放流し、これを子安地点で取水する案」が示されました。
 土地改良区は旧来に近い第2案を支持し、別所川の残水は放棄することとなりこの地域の水量確保は、中江用水から櫛池川に流される放流が鍵を握ることになりました。
 なお、平成18年(2006)10月に新道・上江・中江・保倉・稲荷中江・参賀の6つの土地改良区が新設合併を行い、関川水系土地改良区に生まれ変わりました。

戸野目川用水

中江用水の残水を左右岸の耕地に供給する戸野目川頭首工画像
中江用水の残水を左右岸の耕地に供給する戸野目川頭首工

住宅街を流下する中江幹線第2号用水路の画像
住宅街を流下する中江幹線第2号用水路

 江戸時代中頃にはあったとされる戸野目川用水は、上越市戸野目地内の戸野目川に堰(釜蓋堰)を設けて、分岐する東江・西江には水戸堰・大堰・小堰・土橋関枠など設置し、戸野目古新田、門田新田、大日地域の耕地を潤していました。
 明治36年(1903)に戸野目川普通水利組合(昭和27年:戸野目川用水組合)が設置され、それら施設は戦後まで煉瓦や石積、コンクリート造りに改築・改修が繰り返されました。昭和53年(1978)に国営附帯県営事業で戸野目川頭首工、中江幹線第2号用水路が着工し、各処に設けられた施設は撤去されました。
 主要水源を持たず、自然条件に左右されてきた戸野目川も国営・県営の幹線用水路の完成によりかんがい用水施設の機能を果たす役割がなくなり、排水用の河川となり永い歴史的使命を閉じました。

富岡堰用水

昭和62年に撤去された富岡堰の画像
昭和62年に撤去された富岡堰

県営で新たに造成された子安用水路の画像
県営で新たに造成された子安用水路

 戸野目川中流部に上越市富岡新田・若宮新田の耕地約80ヘクタールを潤す富岡堰が設置されていました。この堰は、江戸時代の中頃に設置されたという記録があり、用水路は本江、東大江・西大江の幹線水路3.4kmの用水でした。この堰は洪水で幾度も大破し、その後改修され、最後は昭和45年(1970)に県の補助で木造に作り替えられました。
 昭和43年(1968)から始まった国営関川農業水利事業(~昭和58年)の整備で、櫛池川に子安頭首工と大道子安幹線用水路が完成(昭和47年)し、附帯県営事業で富岡堰用水に替わる子安用水路4kmが昭和57年(1982)に供用され、富岡堰が撤去されました。

源入堰用水

昭和62年に撤去された源入堰の画像
昭和62年に撤去された源入堰

 古くからあったとされる源入堰は、戸野目川下流部の上越市三田地内に造られた堰で、三田新田・上源入・下源入・安江地域の耕地約120ヘクタールを潤していました。
大正14年(1925)にそれまで木造であった堰をコンクリート造り4門に改築し、その後下流の護岸を昭和36年(1961)に改修しました。昭和58年(1983)に源入堰用水地域も県営事業で造成された子安用水路により水を供給できるようになり、源入堰も撤去されました。
 なお、この地域の特徴として、昭和40年代から昭和60年代にかけて国道8号・18号バイパス、北陸自動車道の建設や工場立地・住宅団地の造成などの開発によって、耕地面積が40ヘクタール程度に減ってしまいました。

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