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新潟県ホーム の中の農林水産業の中の農業水利施設の歴史探訪シリーズ vol.2 『願人堀頭首工・願人堀隧道水路、新堀頭首工・新堀用水路』
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農業水利施設の歴史探訪シリーズ vol.2 『願人堀頭首工・願人堀隧道水路、新堀頭首工・新堀用水路』

2015年09月01日

施設概要 【にいがた農業水利施設百選(整理番号56)】 

 当施設は新潟県岩船郡関川村小和田に位置し、大蛇伝説の舞台となった荒川支流の1級河川女川から水を引き、上野新集落から小和田集落にまたがる河岸段丘に広がる約220haの水田を潤す山腹水路です。
 下流に位置する「願人堀(がんにんぼり)」と上流部の「新堀(しんぼり)」の2つの頭首工から取水し、それぞれ山をくり貫き、山肌を這うようにして水を引いています。
 江戸時代安政年間(1854年~1860年)に建設された願人堀は、小和田地内の頭首工から開水路2.7㎞、隧道2ヶ所0.4㎞の計3.1㎞の水路を経て、上野新集落など5集落を灌漑しています。明治から昭和初期(1903年~1933年)にかけて建設された新堀は、小和田地内の頭首工から開水路3.9㎞、隧道13ヶ所1.3㎞の計5.2㎞の水路を経て、深沢集落など4集落を灌漑しています。これらの水路の建設と同時に、河岸段丘の水稲栽培が困難であった地域でも水田の開墾事業も行われ、現在の集落形成に繋がっています。

インタビュー協力

・大島洋介さん(関川村上野新)
・高橋一裕さん(関川村土地改良区 事務長)
・渡邉 悠さん(関川村土地改良区 係長)

   インタビューの様子

願人堀の歴史

 女川左岸地域は典型的な河岸段丘で、江戸時代の中期までは、ごく限られた場所では湧水や沢水を利用して稲作を行っていましたが、河岸段丘のため河川の水位に比べ地盤の標高が高く、水稲栽培には不向きな土地であったことから、ほとんどが未耕作地でした。
 江戸時代の末期、新たに耕作のできる土地を求めて、菅谷村(現在の新発田市菅谷)から吉右衛門という人が女川左岸地域を訪れ、これが願人堀の建設の契機とされています。
 開墾をするためには水の確保が必要です。当時の技術では、河川の水を段丘の上まで揚水する方法はありません。女川に流れている豊かな水をどうやって開墾地まで引いてくるかを考えた結果、女川の上流から導水する計画を立てました。

   山肌を這う願人堀

 当時は、測量技術や建設機械も無い時代です。最上流の小和田集落よりさらに約3kmもの山中から山合いを縫うように、水を引く水路を建設することは、現在では想像し難い苦労がありました。特に隧道(手堀トンネル)の建設工事は困難を極めました。ロウソクの火と入り口部の明かりを頼りに高低差を確認しながら、鑿(のみ)や槌(つち)を使って、人力だけで岩盤を削り、くり貫いて掘り進めました。岩盤を掘っては腰にくくりつけた莚(むしろ)に乗せて運び出すといった作業を何度も何度も繰り返して掘り抜いたと伝えられています。
 隧道を含めた水路が完成すると、未耕作地であった河岸段丘での開墾事業が行われました。この事業も願人堀の建設工事と同様に、個人の資金に頼った事業のため、潤沢な資金があったわけではなく、開墾された土地の3分の2は作業を手伝った人たちに渡し、次の土地の開墾作業を行うことを6年も繰り返し、30haもの開墾を進めていきました。

     願人堀隧道

 当時、河岸段丘の土地は幕府領であったため、水路工事や開墾を行うにはその都度、水原の代官所(現在の阿賀野市水原町)の許可が必要でした。開墾の計画や工事を進める度に、繰り返し幕府へ開墾の願いを伝えつづけ、工事を進めていきました。その功労者の吉右衛門は「願人どん」の愛称で呼ばれ、願い出た人たちの功績を称え、堰は「願人ぜき(頭首工)」、用水路は「願人堀」、その用水で灌漑する水田は「願人田」と呼ばれる由来になり、頭首工を含めた願人堀は、地域の農業を支える施設として大切に受け継がれてきました。造成から150年以上経過した現在も、毎年田んぼ仕事の始める春先などに、地元農家が総出で江さらいなどの維持管理を行い、大切な用水を運び続けています。

新堀の歴史

 願人堀完成から40年ほど経過した明治中期、河岸段丘の未耕作地を開墾し、水田を拡張する計画が持ち上がりました。拡張に必要な用水を確保するため、農家が共同で出資し、資金を集め、1903年(明治36年)に既存の願人堀を拡張する工事と、さらに上流に取水堰を作り、新たな水路(=新堀)を造成する工事を実施することになりました。

     新堀用水路

 新たな取水堰は、願人堀頭首工から約1.4㎞上流部、標高にして30m程の高位置に造成することに決まり、願人堀の建設工事よりも、現場条件はより厳しくなり、総延長5kmのうち、隧道(トンネル)が13カ所、1.3㎞が計画されました。新堀用水の建設工事は、企業が参入して進められましたが、急峻な地形と、堅固な地盤など悪条件が重なり、予想以上の難工事となって資金が欠乏し、工事の途中で数々の企業が挫折しました。1918年(大正7年)に東北開墾株式会社・片岡辰次郎氏、片岡晴次氏に工事が引き継がれ、新型抜根機械やダイナマイトなど当時の最新技術を使用して工事が進められ、15年後の1933年(昭和8年)にようやく隧道、水路工事とともに、併行して進められていた開墾事業が完了しました。その後、山形県、富山県などから移住者を迎えて、開墾地の耕作が始まり、波走・上野・深沢の3集落が形成されていきました。
 約133haの女川左岸開墾を成し遂げた片岡氏は、住民から慕われ開墾碑建立とともにその功績が後世に引き継がれています。

  合計13ヵ所ある隧道

願人堀、新堀を守る

 願人堀や新堀などの山腹水路は、地形的な条件から平場の水路に比べ維持管理に大変苦労します。願人堀頭首工までの道のりは険しく、車が通行できない山道を15分ほど渡り歩き、高低差30mの急斜面をロープで降りなければ辿り着けません。
 また、新堀頭首工も高地に位置し、車が通行できない通路には木根や巨石などの障害物が多く管理が困難です。その他、水路自体も山を掘り込んで作られているため、斜面や隧道内部の崩落などにより閉塞してしまうこともあります。

   頭首工の補修作業

 そのような事態を防ぐために地元農家が中心となって水路に溜まった葉や泥をさらい、定期点検、補修を行うことで機能を維持しています。現在でも機械作業は困難なため、多くの人手が必要となり地域総出の作業が行われています。
 しかし、近年の過疎、高齢化の進行により負担が増し、施設の改修や更新により、維持管理作業の軽減が急務となっています。

集落総出での維持管理作業

      水路の江浚い

     隧道内の江浚い

先人が築いた女川地区発展のために...

 江戸時代末期から始まった女川左岸の開墾以来、当時の原形をとどめた小区画の農地のままとなっており、農道も狭く、水路も土水路がほとんどで、作業性が低く耕作放棄された土地も散見されるようになりました。
 そのような状況から、願人堀と新堀の受益地を含む女川地区約260haの基盤整備事業が平成26年度から着工となりました。事業を契機に農地の大区画化、集積、連担化が進むことで地区の農業経営が大きく転換されることが望まれます。

最後に

 紹介した歴史からも、本施設は農業水利施設としての価値だけでなく、地域の礎である歴史的遺産として受け継がれていくべきものと思いました。
 また、これらの農業水利施設は、防火用水や生活用水としての役割を果たしており、地域にとって日々の生活に密着した施設にもなっていることはあまり知られていません。
 私たちは、農業農村整備に携わる者として、このような施設の重要性についての広報に努め、地域の皆さまから広く理解していただくことで、施設の継承や今後の農業の発展につながれば良いと思います。

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