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新潟県ホーム の中の観光・イベントの中のいにしえに思いをはせる・・・ -会津街道-
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いにしえに思いをはせる・・・ -会津街道-

2008年07月28日
企画振興部
会津街道の石畳
会津街道の石畳
阿賀町のある東蒲原郡は、かつては会津領であり、津川は会津の西の玄関口でした。
そして明治17年に阿賀野川に沿った道(現在の国道49号線の基となった道)ができるまでは、新発田から若松に至る「会津街道」が主要道として利用されていました。
阿賀町には、一里塚や石畳の道など、街道に関わる貴重な遺構が残されています。
今回のふるさとレポートでは、みなさんに会津街道の魅力をお伝えします。

会津と津川

元学校教師で阿賀町で生まれ育った赤城さんと、神田さんにお話を伺いました。


東蒲原郡はかつては小川庄(こがわのしょう)と呼ばれ、明治になって新潟県に編入されるまでの約700年間、会津領でした。小川庄の中心であった津川は、会津にとって大変重要な場所でした。戦略上のみならず、物流においても重要な拠点でした。津川から新潟まで阿賀野川の舟運が利用できたことが大きかったのだと思います。
歴代の若松城主は、重要な人物を津川城主として送り込んでいますし、江戸時代の初めには、津川は会津藩内で初めて「町」を名乗って良いと言われています。
津川城が廃城となった後も、津川には代官所が置かれていました。
津川は長い間会津領でしたから、縁組みや食べ物、風習は会津の影響が大きかったですね。
例えば、新潟では「のっぺ」といいますが、今でも阿賀町の中では会津の影響で「小づゆ」という地域もあります。
また、会津でよく食べられているニシンは、ここ津川でも麹漬けにして食べられています。

説明していただいた赤城さん(左)と神田さん(右)

説明していただいた赤城さん(左)と神田さん(右)

会津街道

会津街道は、新発田から赤谷、諏訪峠、津川、野沢を経て会津に抜ける約92kmの街道です。古くからの街道ですが、1649年頃会津藩によって整備されたと考えられています。
会津藩の物資の輸送に使われたほかに、新発田藩や村上藩のお殿様が参勤交代に利用していたことから、「殿様街道」とも呼ばれます。
会津街道はいくつもの峠を越えていましたが、諏訪峠は最大の難所とされ、寛文年間(1661~1673)には石畳の道に改修されています。
この石畳が今も残されているほか、一里塚も行地、柳新田、福取などで見ることができます。また、八木山には本陣(参勤交代時の藩主の宿)として使われた建物も残されており、柱には一揆でできた刀傷がある他、万が一のための隠し通路(逃げ道)も用意されていました。
では、石畳を見ながら諏訪峠まで行ってみましょう。

会津街道を説明する赤城さんと神田さん

会津街道を説明する赤城さんと神田さん

ルート図

会津街道のルート図(概要)

角島の追分道標

まず、街道の分岐点となる追分(おいわけ)に行きましょう。
このみちしるべには「左 水原 五泉 小川道」、「右 新発田 村上道」と刻まれています。
いづれも山越えとなる困難な道です。
当時の会津街道の位置を示す貴重な遺構です。残念ながら農地整備で周辺の街道はなくなってしまいました。山中からは昔の街道が残っていますよ。

角島の追分道標

角島の追分道標

石畳の残る街道

街道を歩いてみてください。

レポーター:「石畳だから歩きにくいかなと思ったら、とても歩きやすい街道ですね。」

そうです。
春先と晩秋から初冬にかけては最高ですよ。
当時も藩から(夏でも歩きやすいよう)、街道の両脇に木を植えるよう命令がありました。今も高木が茂っているので、夏でも日陰が多くひんやり涼しいですね。
石畳の道は、ここから柳新田までの1.4㎞程が、車道の湾曲部をショートカットするように5つの区間に分かれて残っています。
でも、かつては諏訪峠まで約5Kmにわたって石畳が続いていたことを思うと、車道建設や水害で分断され、一部消失してしまったのは残念です。
街道の外側に大きな溝地形が見られます。改修前の街道などの可能性もありますが、街道に水が入り込まないよう、排水路を作ったのかもしれません。
津川温泉の敷地からも街道に出ることが出来るので、紅葉の時期に街道を散策して、温泉に入るというのもおすすめです(笑)

とても歩きやすい街道

とても歩きやすい街道

ここは本当に残念なのですが近年の水害で破壊されるまでは、一番保存状態の良い石畳でした。
いまは応急処置として、石の代わりに土のうが埋め込まれていますが、一日も早く復旧したいものです。

水害で決壊した街道の写真

水害で決壊した街道(写真右上に土のうが見えます。)

いちばん上の区間まであがってきました。
ここはよく写真に出てくる階段状の石畳で、どうしん坂と呼ばれています。この区間500mのうち約300mは石畳が完全な形で残っていて、全国的に見てもここまでの状態で残っているのは珍しいのではないかと思います。
街道はこの先、柳新田を通って諏訪峠へと続きます。
この街道は先ほど説明した藩主の他に、有名な人物としては吉田松蔭、十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)、山県有朋(やまがたありとも)などが通っています。
山県有朋は幕末に通った吉田松蔭から、松下村塾(しょうかそんじゅく)で津川周辺の地理を学んでいたといわれています。
その有朋が戊辰戦争の際、会津へ攻め込むために船の必要性を痛感して、船大工の手配のために二度も諏訪峠を越えて新発田へ向かっています。会津藩が船を引き上げてしまっており、阿賀野川を渡れなかったからです。
余談ですが、そのときに船の材料を伐り出した場所は「官軍林」とよばれています。

階段状の石畳(どうしん坂)の写真

階段状の石畳(どうしん坂)

柳新田の一里塚

ここは柳新田から峠まで半分の地点です。大きな塚が対になって残っています。
一里塚周辺は平坦になっていて、旅の疲れをいやすための広場になっています。
峠のむこう側の行地(いくじ)にも同様のものが残っています。また、福取にも対の一里塚が残っていますが杉木立に囲まれて見えにくいのが残念です。(笑)
不思議なことに会津の他の街道にも一里塚はありますが塚がこれほど大きいものはなさそうです。そういったことからも、立派な一里塚があるということはこの街道が特別重要だったのではないでしょうか。

柳新田の一里塚の写真

柳新田の一里塚

諏訪峠

ここが頂上の諏訪峠です。
夏でも風が吹き、とても涼しいです。
吉田松蔭が、幕末の厳冬期に脱藩をして東北旅行に出かけました。その際、諏訪峠越えをしました。
脱藩は重罪ですが、一藩のことよりも日本国のことを考え、見聞を広めるために旅に出る事の方が重要だと思ったのでしょうか。
吉田松陰は諏訪越えの困難を漢詩にしたためました。その詩碑が諏訪峠の頂上に置かれています。
また、峠にはかつては茶屋があり、今も井戸跡が残っています。
街道はここから下りになって、行地集落までところどころに石畳が残っています。
阿賀町にはいろいろな史跡があるので、もっといろいろな方から訪れてもらって、良さを感じてもらいたいですね。

吉田松陰の石碑の写真

吉田松陰の石碑

吉田松蔭の詩「諏訪嶺、雪深く路険し、行歩甚だ難む」


『私が北陸を旅したのは雪深い時だった。敢えて困難を乗り越え、優れた物を探し出そうと思う。
地元の人は、八田・福鳥(福取)・諏訪の嶺はもっとも雪が深く、困難な所だと言っている。
私は八田・福鳥(福取)は雪が深いと言っても、地勢は平坦だったので驚かなかった。
しかし、一人悩んだのは、諏訪嶺であった。
諏訪嶺は高く、雲を凌ぐほどで、山は険しく天にそびえてよじ登らなければならないほどである。
腰も折れんばかりなので、せむしのように背を曲げて上ると、胸も喘ぎ、肌も汗で濡れ、脚も疲れ切ってしまった。
時々烈しい風が雲を巻くようにして起こり、髭を染め、顔を打ち、冷たい肌を刺す。
時々日光が雲間から突き刺すように射し、白い雪に反射してきらきらとまばやき、目が眩むようである。
やっと嶺の頂上を極め、四方を見渡してみると、快感を覚え、したあごがはずれるほど大笑いをした。
頂上から見ると、奥の越山は白い雪でおおわれ天に連なって、平野に一筋の川が青い竜のように長く走り流れている。
雪の深さは幾丈あるか測りしれない。
老樹は雪の中に見没して枝もないように見える。
私は山陽から東海に渡るときに、雨が降ったり、晴れたりしただけで、喜び又悲しんだりしたが、このような困難は未だかつて経験したことがない。
困難が益々甚だしくなればなるほど、珍しいことに直面する。
地元の人が盛んに雪中の困難を言っているが、困難の中に奇特を知ることが出来るのは一体誰だろうか。』


出典 滝沢洋之著 吉田松蔭の東北紀行(原文のまま引用しましたが、地名の一部を( )書きで修正しています。)

☆★☆★レポーターより☆★☆★
お忙しい中、赤城さんと神田さんにご案内いただきながら、梅雨の晴れ間にレポートしてきました。親切にご説明いただき、本当にありがとうございました。
諸事情により街道の遺構が分断しているのが残念ですが、そのおかげで山を登らなくても、車をおりてすぐ見ることができます。
いにしえから続く津川の拠点性を学ぶと共に、きれいで歩きやすい石畳の街道を涼風に吹かれながら歩いていると、参勤交代の行列、行商人の往来、一里塚で休む人々、戊辰戦争の行軍・・・。自然と心はタイムスリップしていました。
会津藩の影響が色濃く残る「会津街道」を歩きながら、いにしえに思いをはせてみませんか。

新潟地域振興局企画振興部 川上&高野&鎌倉