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中山隧道(ずいどう)

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0053769 更新日:2020年10月13日更新

土木遺産ロゴ

 中山隧道は、日本一長い手掘り隧道で、現在も残るツルハシの痕跡など先人達の偉大なエネルギーと苦闘の歴史を伝えてくれる貴重な土木遺産として、平成18年度に選奨土木遺産に認定されました。


 中山隧道と呼ばれる旧トンネルは、昭和8年から24年まで16年間もかけて人力だけで掘り抜かれたトンネルで、手掘りのトンネルとしては日本一の長さと言われています。
 しかしこのトンネルは、普通車が通れないほど幅員が狭いことや、崩落が見られるようになったため、厳しい交通規制がかけられていました。
 このため、新しいトンネルを含む道路改良を実施し、平成10年12月14日に開通となりました。
 新しいトンネルの完成によって、長岡市(山古志)と魚沼市が直結されるだけでなく、近隣市町村を含む広域的な交流の促進や地域振興、地域活性化に大きな役割を果しています。

中山トンネルと中山隧道(ずいどう)の画像

中山隧道の歴史

 現在の長岡市山古志小松倉地区が古志郡東竹沢村小松倉であった頃、この地区は二十村郷と呼ばれた古志一帯の中で一番奥に位置していました。
 小松倉地区から近くの街までは長岡市街地へ約20km、小千谷市へ約15km、魚沼市(小出)へは魚沼市水沢新田を経由して約12kmでした。どの街へ行くにしても峠越えをしなければいけないため、小松倉地区の人々は生産した米、養蚕品、薪炭などの搬出、あるいは生活物資、医療、祭事の受け入れなど生活の大部分を最短距離の魚沼市(小出)に依存していました。
 しかし、小松倉から魚沼市に行くためには中山峠という大きな峠を越えなければならず、しかも、この峠道は4km以上あり、道路も整備されていなかったため、冬は吹雪により遭難する人が後を絶ちませんでした。
 「この峠には隧道が必要だ」とその必要性を感じていた人はいましたが、具体的にこの峠にトンネルを開ける話が出たのは昭和7年のことです。あまりのスケールの大きさに初めは相手にされません
でしたが、主な発起人たちの熱心な努力が実り、昭和8年11月12日「鍬立(くわたて)式」と呼ばれる起工式が行われ、工事が始まりました。
 工事には小松倉の人たちが交替で従事し、ほとんどの資金は地区の人たちの寄付や土地等の売却代金で調達し、ツルハシとシャベルで掘り、土砂は地車(丸太の車輪に箱を乗せたもの)で運び工事を始めました。以後16年の歳月を費やし、「中山隧道」と呼ばれるトンネルが人の力だけで掘られたのです。現在でも、掘削当時のツルハシやノミの跡が残る貴重な隧道です。
 普通は、新しいトンネルができると用のなくなった古いトンネルは閉鎖しますが、この貴重な隧道をなんとか保存したいという地域の皆さんの熱意もあって、補強工事を実施して保存することになりました。

中山隧道の歴史の画像


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