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新潟県ホーム の中の建設・まちづくりの中の長岡市のシンボル『長生橋』
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長岡市のシンボル『長生橋』

2005年11月17日
長岡地域整備部管内で信濃川に架かっている現在の『長生橋』(国道351号)は3代目の橋で、平成9年には還暦(60歳)を迎えました。長生橋は信濃川で分断されている長岡市の川東地域と川西地域を連絡する重要な橋であるのはもちろんですが、毎年8月2日と3日に行われる長岡の大花火大会では「ナイアガラ」の名称で知られる「しかけ花火」が架かる橋としても有名で、長岡市のシンボルともなっています。
 渡船については、「………長岡の草生津の渡しは、川幅836.28mの大河で、大水の時は木や土石を流し又春雪解けの時は、堅い雪の固まりが激しく流れ、六隻の渡し船と人々は渡るに苦しむ事が度々あった………」という記録も残っています。 
 明治9年、有料橋となった木橋(初代『長生橋』)の完成によって約300年続いた渡船業は、明治11年には廃止されました。
 当初この橋には臥龍(がりゅう)橋(腹を中州に付け、格好が龍が寝ている様に見えたため)という名前がつけられましたが、明治9年10月の開通式の際に『長生橋』に名前が変更されました。長岡市の「長」の字と、この橋が草生津(くそうづ)という地区に作られたことから「生」の字をとって名付けられたと言われています。
 『長生橋』の西詰めには、初代『長生橋』の建設に力を尽くした広江椿在門氏の偉業を称えた碑が建てられています。
 中州をはさんで東側の大橋と西側の小橋の2橋からなる初代『長生橋』の建設費は通行賃によって償却される計画でした。しかし、思惑どおりにはいきませんでした。信濃川の洪水で、たびたび橋は破損し、流失したからです。
 災害は尽きることがなく、架橋者はその負担に耐えきれず次々に変わり、ついに明治24年には、所有を県に移して無賃橋になりました。
 但馬(今の兵庫県)妙見山の杉材を使用して大正4年に完成した2代目『長生橋』も木橋であったため、風雨と洪水で部分流失を繰り返し、また、損傷、腐朽もはなはだしく、橋を渡るのが困難な状態になってしまったことから、3代目『長生橋』の建設へと進んでいきます。
 工事真っ最中の昭和9年7月から、にわかに鋼材が値上がりしました。これは、イタリアとエチオピアの間で戦争が勃発したためで、契約当時の価格と比較して5割近くも高騰するという思わぬ困難にもみまわれましたが、昭和12年に3代目となる現在の『長生橋』が完成しました。
 また、交通量の増加により、昭和45年12月には、歩行者の安全を確保するための歩道橋(幅員2.5m)の建設に着手し、昭和47年9月に完成しました。
 『長生橋』は平成9年に還暦を迎えましたが、補修や塗装等の維持管理をしながら、地域住民の生活を支える重要な橋として現在も頑張っています。
●3代目『長生橋』の構造について
  橋を分類する方法には、
 ①用途による分類(道路橋、鉄道橋、人道橋など)
 ②平面形による分類(直線橋、曲線橋など)
 ③使用材料による分類(鋼橋、コンクリート橋、木橋など)
 ④道路の位置による分類(上路橋、下路橋など)
 ⑤構造形式による分類(桁橋、トラス橋、アーチ橋、斜張橋、吊橋など)
  などがありますが、一般的に橋の形式を一言で表す場合、③~⑤をまとめて表現する場合があります。この表現方法で言うと、3代目『長生橋』の形式は、下路式ゲルバー鋼ワーレントラス橋と言います。
  初代と2代目『長生橋』は木で出来ていましたので木橋でしたが、3代目『長生橋』は鉄で出来ていますので鋼橋と言います。
【参考文献】
 ・「長生橋関係資料集」          吉野利夫
 ・橋のはなしⅠ              技報堂出版株式会社 
 ・図解 橋梁用語事典           株式会社山海堂
 ・土木学会監修 土木用語辞典       株式会社コロナ社
                      技報堂出版株式会社
 ・「写真集 ふるさとの百年 <長岡>」  新潟日報事業社
 ・「図解 にいがた歴史散歩 <長岡>」  新潟日報事業社