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新潟県ホーム の中の建設・まちづくりの中の信濃川になぜ橋を作ることが必要だったのですか?
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信濃川になぜ橋を作ることが必要だったのですか?

2005年12月07日
◆【中学1年生及び中学2年生から寄せられた質問に対する回答です。】
 明治9年(1876年)に、信濃川の中州をはさんで、東側に長橋230間(約418.18m)、西側に短橋約48間(約87.27m)、合計の長さ
278間(約505.45m)の橋が完成しました。
 この橋が初代「長生橋」で、信濃川の中州をはさんで大小2つの橋からなる
木で作られた橋【木橋(もっきょう)と言います】でした。またこの橋は、新
潟の「万代橋」に10年先んじて完成した信濃川最初の橋でもありました。
長岡市は信濃川によって川東地区と川西地区に分断されています。初代「長生橋」ができるまでは、渡船によって往来をしていました。
<草生津(くそうづ)の渡し>
 蔵王にあった渡しが、慶長10年(1605年)草生津に移されました。渡
守(わたしもり)は通称宅兵衛といい、本大島(もとおおじま)に住み、藩か
ら扶持(ふち)を与えられ、藩の庇護のもとで支配していました。代々の宅兵
衛は、およそ300年間草生津と本大島との間をつなぐ重要な役目を担当しま
した。
 渡船については、「………長岡の草生津の渡しは、川幅836.28mの大
河で、大水の時は木や土砂を流し又春雪解けの時は、堅い雪の固まりが激しく
流れ、六隻の渡し船と人々は渡るに苦しむ事が度々あった………」という記録
も残っています。

<広江椿在門(ひろえちんざえもん)>
 渡船はかなりの不便と危険を伴いました。また、時代が進むにつれて人も物
資も多くなったため、それを円滑に運ぶことが難しくなってきました。そのう
え明治維新で長岡藩が崩壊するに及んで、渡船業が行きづまり、東西の細い交
流は、明治時代に破綻を生じてしまいました。
 信濃川の左岸に住む人々にとっては、川東の長岡の町は魅力でした。自由に
通行ができることを切望し、夢想したのが明治のはじめの信濃川左岸、川西の
人々の願望でした。
 このようなことから、明治7年(1874年)12月三島郡岡村古新田(緑
町)の元庄屋広江椿在門は、橋梁架設願(きょうりょうかせつねがい)を県に
提出し、明治8年(1875年)に許可を受けました。
 設計が進むにつれ、橋梁に経験豊かな中蒲原郡大野村(新潟市と合併前の西
蒲原郡黒崎町)の小林政司の協力を得ました。明治9年(1876年)4月下
和納村(西蒲原郡岩室村)の大工川崎甚蔵が工事を請け負い、三島郡池津村
(小千谷市池津)の堀井弥十郎が金主となって、いよいよ架橋がはじまり、激
流のなかで突貫工事が行われ、着工から7カ月目の10月にめでたく落成をみ
ました。
 その夢に近い壮途は、はじめ人々をあぜんとさせましたが、日本一長い木橋
が架かると驚嘆に変わったといいます。

<渡船の廃止>
 橋の通行は有料で、人は8厘、馬と人力車は1銭6厘と定め、橋番4人を置
いて、橋上の糞土(ふんど)の片付け、冬期の除雪など木橋の維持に意を用い
ました。橋は夜中でも通行人が絶えることがなかったといいます。
 橋の中州には1杯のみ屋、駄菓子やトコロテンなどの1文店もできました。
 反面、渡しはさびれ、明治11年(1878年)には長い歴史の幕を閉じま
した。
 明治9年(1876年)、有料橋となった木橋(初代「長生橋」)の完成に
よって約300年続いた渡船業は、明治11年(1878年)には廃止されま
した。
 中州をはさんで東側の大橋と西側の小橋の2橋からなる初代「長生橋」の建
設費は通行賃によって償却される計画でした。しかし、思惑どおりにはいきま
せんでした。信濃川の洪水で、たびたび橋は破損し、流出したからです。
平成9年10月1日に発行された旧長岡土木事務所の「所内報」第8号に掲載
された記事の一部を以下に紹介します。

【信濃川に橋を架ける?】
(廣江椿在門(ひろえちんざいもん)の偉業)
 慶長10年(1605年)5月蔵王の渡しが草生津に移され、元禄14年(1701年)草生津河渡が開かれた。渡しの難所として一般に静岡の大井川が知られているが、草生津の渡しは、川幅550間(約1,000m)と言われ、水深も流れもそれ以上の難所で、渡船の他なく大小十八艚もの渡し船があった。渡船は多くの人命を預かり、まかり間違うと大きな惨事となる。大水は勿論の事、雨・風や吹雪・夜間は欠航、難船は付きものであった。特に大きな惨事は、宝永5年(1708年)12月26日乗船者59名中31名、享保6年7月17日21名、万延元年5名の溺死者を出し船頭が処罰されたとの記録がある。
 長岡と対岸の本大島(現西長岡地区)や柏崎との交流には信濃川が障害となっていた。このように渡船は不便であり危険で、しかも時代が進むにつれて輻輳する物資・人員を円滑にさばかれず、そこで大胆にもこの大河に橋を架けようと長岡警察の白石正利警部・大区長三島億次郎や大森佐太郎・田中二四郎・赤沼寿水等が立案をした。がしかし、当時としてはあまりにも破天荒な計画であり実現できなかった。しかもその頃、長大橋の架橋技術は一子相伝の技術であり、棟梁・人足手頭の技量がすべてを左右する時代であった。このような事から、しばらく渡船に頼らざるを得なかったが、その芽は一人の庄屋によって培われていた。その人は三島郡岡村古新田(現長岡市緑町3丁目)の庄屋廣江椿在門である。
 椿在門は渡船による村人の不便解消や、長岡の今後の産業発展と文化の向上を考え決起した。その為、明治6年架橋方法の研究視察に東京や横浜等を遊歴し、家では実験を試みるなど苦心の結果同7年12月有料橋として県に架橋願いを提出した。賃金等の関係で、同8年5月小林政司との連名に変更し同年7月ようやく許可を得た。棟梁は西蒲原郡和納村の大工川崎甚蔵、人足手頭を同郡地蔵堂村の小松川松五郎として、大工360名人足1,298名を見込み、中州を挟んで東西から二つの橋でつなぐ事とした。各地の有志から寄付を募り同9年4月30日工事に着手した。しかし予想以上の難工事で遅々として進まず、さらに風や出水で失費も重なりついに資金も欠乏したが屈せず、大工甚蔵の仲介で相談を受けた三島郡片貝村(現小千谷市片貝)の堀井弥十郎は、家産を傾けてまで工事を継続している椿在門に感動し、資金の応援を約束、ようやく同年10月20日本流部230間(約418.2m)幅3間2尺・中州180間・支流部48間(約87.27m)幅2間という当時としてはまさに空前の大橋が完成し信濃川架橋の始まりとなる。
 総工費は当時の金で11,552円79銭2厘となった。
 翌年4月盛大な開橋式を行ったが、椿在門は苦境にあっても村人からは通行料を取らず、その代償として維持管理の応援を願う事として無料手形を発行した。
 橋名の由来については、最初は龍が横たわるようであるとの事から「臥龍(がりゅう)橋」と名付けたが、開橋式と共に長生橋と改められた。「長生き」とも「長岡の長と草生津の生をとったとの話」もあるが詳細は不明である。


【参考文献】
・「長生橋関係資料集」       吉野利夫
・長岡土木事務所「所内報」第8号  吉野利夫  
・ふるさと長岡のあゆみ       長岡市役所発行
・図解 にいがた歴史散歩 長岡   新潟日報事業社発行
・写真集 ふるさとの百年 長岡   新潟日報事業社発行