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寺泊・和島地域の用水を紹介します。

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0053579 更新日:2019年3月29日更新

寺泊・和島地域の用水の歴史

大正初期の寺泊周辺の地図の画像
大正初期の寺泊周辺の地図

空から撮影した寺泊周辺の写真画像
空から撮影した寺泊周辺の写真

 長岡市合併前の寺泊町は、明治34年(1901)に北西越村、西山村、潟村、野積村を編入合併し、寺泊港を中心に発達した漁業と農業を兼ねた農山村地域と、昭和32年(1957)に純農村地域であった大河津村の大部分が合併し、現在に至っています。
 大正前期から昭和15年(1940)頃までの寺泊地域では、養蚕の町として発展していましたが、戦後は農業生産性の向上・農業総生産の増大・農業構造の改善を図ることを目的に開墾や土地改良事業が実施され、養蚕農業は激減しました。
 また、旧大河津村の耕地は、海岸丘陵の背後地と三島丘陵の分岐した平坦部に広がっています。山側の耕地では、沢水やため池など利用し苦労しながら用水を確保していましたが、低平地に広がる耕地では、地域の中央を流れていた島崎川を用水源としていましたので、用水不足で悩まされることはほとんどありませんでした。
しかし、円上寺潟などの潟湖が広がっていたこの地域では、少し長雨や集中豪雨があったときなど、たちまち川が氾濫し、収穫の無い年もありました。
 旧和島村は、昭和30年(1955)に島田村と桐島村が合併し、さらに昭和33年(1958)、出雲崎の一部であった高畑を編入し、現在に至っています。保内郷といわれたこの地域でも、用水は島崎川にたよっていました。地形が緩やかで水量が乏しかったことから、しっかりとした堰止めをして用水路へ水を導くことが必要でしたが、大雨の時など、これら堰は洪水被害を受けやすくなっていました。この地域の代表的な用水堰として、中世以降に作られたとされる村田堰があります。この堰は、江戸時代何度も洪水によって壊され、つくり直された記録が和島村史に書かれています。
 この寺泊、和島地域の用排水改良は、大河津分水路工事により大きく変化しました。島崎川が分水路により分断されることから、その附帯工事として、新島崎川、郷本川、落水川開削(明治~大正)としての排水対策のほか、用水対策として大河津村岩方から取水し、双川橋まで新たに用水路を開削する新潟新用水の建設が行われ、用排水の利用形態は大きく変化しました。

保内堰の画像
保内堰の様子

新潟新用水の画像
寺泊敦ケ曽根を流れる新潟新用水

戦後、この地域では数多くの用排水改良が行われました。

 戦後、食糧増産の時代を迎え、人々は豊かな農業経営をするために耕地整理と併せた用排水路の抜本的な改良を望みました。昭和27年(1952)、三島郡北部土地改良区が設立され、昭和33年(1958)、人々の念願であった県営かんがい排水事業「三島郡北部地区」が採択されました。
 その県営工事では、用水源を長岡市与板町岩方の信濃川に求め、一部隧道(水路トンネル)を経て和島地域に水を供給する幹線用水路を整備するとともに、排水対策として、既設排水路(郷本川、新島崎川、馬鹿川、五千石排水路ほか)の拡幅、新たな隧道(新円上寺隧道、郷本隧道)の掘削を実施しました。
 昭和42年(1967)に建設された岩方揚水機場は、この地域に用水を供給し続けていましたが、近年故障などを繰り返していたことから、平成23年(2011)4月に県営事業で新たな揚水機場が建設されました。
 耕地整理においても、戦後から昭和40年中頃までに団体営事業などにより10~20a区画に整備がなされました。これにより、用排水路の分離がなされ、耕地が乾田化し、機械化による農業経営の合理化が大きく進みました。
 近年、機械の大型化、さらなる農業生産性の向上をめざし、桐島・桐原地域や保内郷、円上寺潟があったとされる旧大河津村地域周辺で約1,300haの耕地整理(ほ場整備)が進められています。
 また、野積地区の砂丘地では、昭和30年代に田畑約80haの開拓が行われました。その水源は、塩害を避けるため、大河津分水路の河口にある野積橋の上流700mのところに取水施設が設置されています。

旧岩方揚水機場のポンプ画像
昭和42年に建設された旧岩方揚水機場

昭和30年代に耕地整理が行われた野積地区の画像
昭和30年代に耕地整理が行われた野積地区

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