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三島郡北部土地改良区の概要を紹介します。

2010年08月27日
三島郡北部土地改良区管内の画像
三島郡北部管内からは、国上山や弥彦山を望めます。(旧和島村上桐より)
土地改良区は、
・農業生産を行う上で欠かせない用排水施設の整備・管理や農地の整備を目的として設立された農家の組織です。
・国土の保全や美しい農村景観など多面的機能を持つ大切な資源である農地や農業用水を次世代に引き継ぐ役割を担っている組織です。

三島郡北部土地改良区ってどんなところ?

 三島郡北部土地改良区は、数多くの農業用用排水施設を管理しています。
・揚水機場(72箇所)
・用排水路 L=97.2km
・堰・頭首工 1式(保内堰、郷本堰ほか)
管理する幹線用水路の画像
保内堰の画像

信濃川の水を地区内に導水する新用水路

島崎川上流地域の重要な取水施設である保内堰

 三島郡北部土地改良区は、長岡市(旧三島郡寺泊町、和島村)及び燕市(旧西蒲原郡分水町)の一部を区域とし、旧西山町付近を源とする島崎川によって形成された沖積地帯にあり、農地面積1,725ヘクタール、組合員1,701人の県下有数の農業地帯を管理する土地改良区です。
 戦後、6つあった普通水利組合(信濃川新用水、島崎川東部、落水、須走、潟、東西)を統合し、昭和27年3月に三島郡北部土地改良区が設立され、その後和島地域の一部を地区編入するとともに昭和39年に和島土地改良区、昭和48年に平野新土地改良区を合併し、現在に至っています。
区域図の画像

水田開発は、江戸時代初期から始まり、水との闘いでした。

 島崎川流域は、西の海岸線に沿って西山丘陵があり、東に三島丘陵という低い山に挟まれた地形で、海岸沿いは平地が少ないため、丘陵の谷合いから島崎川方面に新田開発が進められ、島崎川流域に水田が集中しています。
現在、この地域に広がる水田も、越後平野を代表する福島潟、紫雲寺潟(塩津潟)、鎧潟、赤沼潟などの湖沼と同様、かつては本山、下曽根地域付近に円上寺潟と称する500ヘクタール余りの湖沼の低湿地が広がる水害常襲地帯でした。
 また、地域を縦貫していた島崎川は、現在の燕市(旧分水町牧ヶ花)地先で西川と合流し、地域の用水源としても重要な機能を果たしていましたが、梅雨や秋雨の頃になると西川からの悪水が逆流し一帯は湛水し、一大湖沼の様相を呈していました。
大正2年頃の管内のイメージ画像
大正2年頃の管内のイメージ
 円上寺潟の干拓は、承応元年(1652)から始まり、日本海への排水も計画されましたが、丘陵地を通過すること、膨大な費用がかかることなどからその当時は、排水先を島崎川筋から西川に求めざるを得ませんでした。その後、島崎川筋への排水路の整備を進めましたが、排水口にある村々の反対などに遭い、思うように工事が進みませんでした。
 このことから、寛政10年(1798)に渡部村地内(旧分水町)から丘陵地を掘り抜き、野積村須走浜にて日本海に直接排水する計画(排水路延長4,090m、うち隧道1,181m)が再び立案され、寛政12年(1800)より工事が始まり、文化12年(1815)に竣工しましたが、潟の完全な排水はできず、明治以降の大河津分水路の完成まで待たなければなりませんでした。
新潟平野の治水対策として、明治3年(1870)に起工された大河津分水路工事(信濃川をショートカットして日本海へ)は、あまりの難事業のため、同8年(1875)に中止されました。この頃、地元では依然として円上寺潟の排水に苦慮していたことから、この分水路予定地であった跡敷地を買収し、そこに排水路(須走川3,531m明治25年竣工)を開削しました。また、島崎川流域でも毎年湛水が続き、その被害に困っていた農民は、島崎川に平行して排水路(馬鹿川)を掘削し、低平地の排水対策工事を実施しました。
 しかし、明治40年(1907)、再び大河津分水路工事が内務省直轄工事として開始され、地域の基幹排水である島崎川、須走川の流路が分断される状況になりました。このため、大河津分水付帯工事として、島崎川上流部に位置する旧和島村村田地内から日本海に流れる落水川(現在の島崎川)の開削(明治45年~大正5年)、中流の旧寺泊町松田・田頭地域を流れる郷本川の開削、島崎川下流の旧寺泊町川崎地域からは新たに排水路(新島崎川)を掘り、円上寺隧道を経由して海に排水する工事が行われました。これら工事により、水害常襲地帯であった島崎川流域の治水条件は著しく改善されました。

越後長岡百景「八幡林遺跡」について紹介します。

八幡林遺跡のある国道116号周辺の画像
道の駅良寛の里わしまの画像

遺跡のある国道116号八幡林トンネル

「道の駅良寛の里わしま」のもてなしの家

 平成2年、国道116号バイパスの整備に伴う発掘調査で、「沼垂城」、「養老」、「郡司府」と書かれた木簡が出土しました。647年(大化3年)に時の中央政権の蝦夷(えぞ)政策の最前線基地としてつくられた日本最古の城柵「渟足柵」(ぬたりのき)は、その存在を示す証拠は日本書紀の記述だけとされていたため、この木簡の発見は大きなインパクトを与えるものでした。渟足柵が新潟市付近に存在していたこと、旧和島村にあったとみられる古志郡役所(郡衙=ぐんが)から、頚城地方の越後国府を結ぶ交流ルートがあったことなどが明らかとなるなど、日本中の歴史ファンを魅了しました。これに伴い建設省はバイパスの工法を変更、遺跡は保存されました。
 現在、周辺ではほ場整備を進めており、その工事に伴う事前遺跡調査も実施されています。

土地改良区が管轄する旧和島村地域やその周辺地域では、良寛に関する史跡がいっぱい!

良寛が晩年暮らした木村家の画像

良寛生誕の地としての出雲崎町には、
・良寛記念館のほか、良寛の生家橘屋の屋敷があったところに建てられた良寛堂、良寛剃髪のお寺、光照寺など、良寛に関する史跡を数多く楽しむことができます。
良寛・貞心尼出逢いの地、良寛の里 旧和島村(現長岡市)には、
 ・晩年、良寛がすごした木村家や良寛のお墓がある隆泉寺ほか、良寛の里美術館などあります。なお、良寛の父、以南の生誕の地でとして旧与板町(現長岡市)にも数多くの史跡を楽しむことができます。

良寛が晩年暮らした木村家

 宝暦8年(1758)三島郡出雲崎町の名主、山本以南(いなん)の長男として生まれ、栄蔵と名付けられました。18歳の時に名主の見習い役になりましたが、間もなくやめて、尼瀬の光照寺にはいり、玄乗(げんじょう)和尚の弟子になり、名前を良寛とあらためました。
 22歳の時に国仙和尚に従って、備中国玉島(岡山県)の円通寺に行き、そこで修行をしました。26歳の時に母、秀子が亡くなり、34歳の時に国仙和尚、38歳の時に父、以南が亡くなりました。
 寛政8年(1796)の39歳の時にふるさと出雲崎へ帰って、人の住んでいないお寺で暮らしていました。48歳の時に国上山(くがみやま)の五合庵に住みはじめ、59歳のときにそのふもとの乙子(おとご)神社の境内にある庵に移りました。
 文政9年(1826)、69歳の時に島崎村の木村元右衛門という人が年をとった良寛を心配して自宅に招き入れました。その後、天保元年(1830)の秋頃、重い病気にかかり、翌年1月6日に親しい人たちに見守られながら亡くなりました。良寛のお墓は木村邸のすぐ近くの隆泉寺に建てられました。
 良寛は、かくれんぼをしたり、まりつきをしたりして子どもたちと遊ぶことが大好きで、歌をつくることや字を書くことなどもとても上手でした。