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【長岡】北越戊辰戦争ゆかりの地を紹介します(8 「八十里越」)

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0053513 更新日:2020年3月27日更新

 1868年(慶応4年)、京都近郊の鳥羽伏見で同盟軍(東軍)と新政府軍(西軍)が衝突し、火蓋を切った戊辰戦争は、関東、東北、北海道へ広がる中で、現在の新潟県においても「北越戊辰戦争」と呼ばれる激しい戦いがありました。
 特に軍事総督、河井継之助率いる長岡藩は、同盟軍としておよそ3か月にもわたる熾烈な攻防戦により新政府軍を脅かし、その戦いぶりは後世にまで語り継がれています。
 北越戊辰戦争ゆかりの地は、司馬遼太郎氏が河井継之助を主人公に執筆した小説『峠』にも描かれ、多くの歴史ファンを魅了しています。
 長岡地域振興局管内を中心に、北越戊辰戦争の舞台となった場所を御紹介します。

八十里越(三条市)

 1868年(慶応4年)旧暦7月25日(新暦9月11日)、軍事総督河井継之助率いる長岡藩は、八丁沖渡河作戦によって城を奪還しました。
 しかし薩摩藩兵を中心とする逆襲が始まり、継之助は特に戦いが激しかった新町口へ兵を集めて赴きますが、左膝に弾丸が命中して重傷を負いました。
 総指揮官の負傷に長岡藩兵の士気はたちまち衰え、戦況は悪化の一途をたどり、長岡城奪還のわずか4日後、再び長岡城は落城しました。
 継之助は急ごしらえの担架に乗って長岡城下を脱出し、東山山麓を北上して見附、栃尾を経て、八十里越の越後側の起点、吉ヶ平に入りました。
 八十里越は、越後と会津の交易の街道として当時往来が盛んでしたが、一里が十里に相当するくらいの難所でおよそ八里(約31キロ)の道のりであったため、この名がついたと言われています。
 継之助は、悪路に揺られながら「八十里腰抜け武士の越す峠」と自嘲の句を詠みました。
 旧暦8月5日(新暦9月20日)早朝、秋雨の中、継之助一行は会津側の叶津の口留番所に到着しました。
 その後、只見町において軍医、松本良順の診察を受けましたが、すでに継之助は手の施しようがない状態でした。旧暦8月12日(新暦9月27日)、再び会津に向けて出発しますが、塩沢村の村医師、矢沢宗益宅で最期を迎えることになります。
 継之助の臨終に立ち会ったのは、栃尾組の庄屋の若者たち、大崎彦助、外山寅太(脩造)、諏佐泰助らでした。なかでも外山脩造は、継之助からかけられた言葉が、のちの運命を大きく変えました。
「世の中は大変面白くなってきた。寅太や、なんでもこれからのことは商人が早道だ。思い切って商人になりやい」
 脩造はその言葉を忠実に守り、戦後、慶應義塾で学び、大蔵官僚を経て第三十二国立銀行の頭取となり、阪神電鉄や大阪麦酒会社(アサヒビール)を創業し、日本経済の礎となりました。「私が成功したのも河井継之助によるものだ」と生涯継之助を尊敬したと言われています。継之助の慧眼(けいがん)は、いまわの際にあっても、日本の未来を見据えていました。
 旧暦8月16日(新暦10月1日)、幕末の風雲を駆け抜けた継之助は永眠しました。享年42歳でした。
(参考文献:稲川明雄 『風と雲の武士』 恒文社 平成22年12月
 稲川明雄 『決定版 河井継之助』 東洋経済新報社 平成24年8月)

八十里越の写真です
八十里越

 

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