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【長岡】北越戊辰戦争ゆかりの地を紹介します(「長岡市郷土史料館」、「見送り地蔵」)

2018年06月14日
 1868年(慶応4年)、京都近郊の鳥羽伏見で同盟軍(東軍)と新政府軍(西軍)が衝突し、火蓋を切った戊辰戦争は、関東、東北、北海道へ広がる中で、現在の新潟県においても「北越戊辰戦争」と呼ばれる激しい戦いがありました。
 特に軍事総督、河井継之助率いる長岡藩は、同盟軍としておよそ3か月にもわたる熾烈な攻防戦により新政府軍を脅かし、その戦いぶりは後世にまで語り継がれています。
 北越戊辰戦争ゆかりの地は、直木賞作家司馬遼太郎氏が河井継之助を主人公に執筆した小説『峠』にも描かれ、多くの歴史ファンを魅了しています。
 長岡地域振興局管内を中心に、北越戊辰戦争の舞台となった場所を御紹介します。

長岡市郷土史料館

 1868年(慶応4年)旧暦5月19日(新暦7月8日)、長岡城が落城すると、長岡藩主牧野忠訓(ただくに)をはじめ、長岡藩士は悠久山の蒼柴神社前に集結しました。軍事総督河井継之助も武器庫などに残存している弾薬の処分を命じ、再起を期す覚悟で長岡城を脱出しました。
 この日、長岡城は17の城門、13の隅やぐら、本丸御殿などのほとんどが焼け落ちました。町屋は1,497軒、家中屋敷は492軒、足軽屋敷は522軒、計2,511軒が焼失、寺や兵学所、藩校なども焼け、長岡城下は壊滅的な被害を受けました。
 現在、悠久山の高台には、お城の形をした長岡市郷土史料館が建っています。
 「戊辰戦争を戦った人々」、「河井継之助の足跡」及び「小林虎三郎と米百俵」等のコーナーがあり、継之助が使用した河井家の家紋入り提灯や山本帯刀の佩刀などが展示されています。4階の天守閣部分は展望室となっており、長岡市街地が見渡せます。
 郷土史料館付近には、河井継之助の碑が立っています。碑文は、継之助が山田方谷のもとで親交を深めた三島毅(こわし)(中州)が「君の才能が充分発揮されなかったことを悲しんだ」と綴りました。題額は、山県有朋とともに長岡城攻略を行った黒田清隆によるものです。
(参考文献:稲川明雄 『風と雲の武士』 恒文社 平成22年12月
        新潟日報社「戊辰戦争140年中越の記憶」取材班 『戊辰戦争140年中越の記憶』 新潟日報事業社 平成21年7月
        長岡市観光企画課 『戊辰・河井継之助ゆかりの地ガイドブック』)

「長岡市郷土史料館」
所在地:長岡市御山町80-24
交通 :長岡駅東口からバス15分、悠久山または御山町下車で徒歩15分
休館日:12月28日~1月4日
開館時間:午前9時~午後5時
観覧料:大人300円、高校生200円、小中学生150円

長岡市郷土史料館の写真です
河井継之助の碑の写真です

長岡市郷土史料館が建つ悠久山は、桜の名所でもある

河井継之助の碑

見送り地蔵(長岡市)

 長岡城落城後、悠久山に集まった河井継之助ら長岡藩士たちは、榎峠方面に出張していた精兵たちを吸収し、東山連峰の森立(もったて)峠に集結しました。
 森立峠の御殿場から燃えさかる城下をはるかに眺め、継之助は再起を誓います。藩主牧野忠訓(ただくに)一行を会津若松に避難させ、長岡藩士を森立峠から栃尾方面に下らせて加茂に集結させるべく進軍を開始しました。長岡藩の本格的な戦闘は、落城後に苛烈になっていきます。
 長岡市の中心部から栃尾地域に抜ける山越えの県道途中にある森立峠には、1キロほど南に旧道があります。かつては藩主が栃尾を巡視する際に殿様行列が通ったことから「殿様街道」と呼ばれた主要道でした。峠には、地蔵の姿が刻まれた「見送り地蔵(または「見返り地蔵」)」と呼ばれる石塔が立っています。優しく穏やかな顔立ちのこの地蔵に見送られ、城を失った長岡藩士や家族は、栃尾へと落ち延びていきました。
(参考文献:稲川明雄 『風と雲の武士』 恒文社 平成22年1月
        新潟日報社「戊辰戦争140年中越の記憶」取材班 『戊辰戦争140年中越の記憶』 新潟日報事業社 平成21年7月)

「見送り地蔵」
 所在地:長岡市軽井沢区
 交通 :長岡駅東口から車で22分

見送り地蔵の写真です
森立峠から眺める長岡市街の写真です

見送り地蔵

森立峠から眺める長岡市街地