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【長岡】北越戊辰戦争ゆかりの地を紹介します(2 「開戦決意の地記念碑」、「長岡藩本陣跡」)

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0053455 更新日:2020年3月27日更新

 1868年(慶応4年)、京都近郊の鳥羽伏見で同盟軍(東軍)と新政府軍(西軍)が衝突し、戊辰戦争の火蓋が切られました。京での戦いに勝利を収め、江戸城を無血開場させた新政府軍は、反抗勢力を制圧しようと各地へ軍隊を送りました。戦火が関東、東北、北海道へ広がる中で、現在の新潟県においても「北越戊辰戦争」と呼ばれる激しい戦いがありました。
 特に軍事総督、河井継之助率いる長岡藩は、同盟軍としておよそ3か月にもわたる熾烈な攻防戦により新政府軍を脅かし、その戦いぶりは後世にまで語り継がれています。
 北越戊辰戦争ゆかりの地は、司馬遼太郎氏が河井継之助を主人公に執筆した小説『峠』にも描かれ、多くの歴史ファンを魅了しています。
 長岡地域振興局管内を中心に、北越戊辰戦争の舞台となった場所を御紹介します。

開戦決意の地記念碑(前島神社)(長岡市)

 小千谷談判の翌朝である1868年(慶応4年)旧暦5月3日(新暦6月22日)、河井継之助は前島村を警備していた川島億次郎(後の三島億二郎)を訪れ、談判決裂の結果を伝えました。
 継之助は新政府軍との戦いに反対していた友人である億次郎に対し、「もし和するなら、我を切り3万両とともに差し出せ。さすれば戦争は避けられる」と迫りました。
 これに対し億次郎は1度は再考を求めたものの「是非もなし。死生をともにせん」と応じ、この瞬間、継之助は開戦への決意を固めました。この決意が、長岡の歴史を大きく変えていくことになります。
 前島神社の境内に、「開戦決意の地記念碑」が建っています。
(参考文献:長岡市観光企画課 『戊辰・河井継之助ゆかりの地ガイドブック』)

「開戦決意の地記念碑(前島神社)」
所在地:長岡市前島町226
交通 :長岡駅大手口からバス20分、前川駅前下車で徒歩3分

開戦決意の地記念碑の写真です
開戦決意の地記念碑

長岡藩本陣跡(光福寺)(長岡市)

 川島億次郎との面談ののち、河井継之助は長岡藩の本陣が置かれた光福寺に諸隊長を集め、「長岡藩は道義にのっとった社会のため、一藩をあげて戦おう」と士気を鼓舞しました。
 ここは最新鋭のガトリング砲と洋式武装した藩兵が配備され、1868年(慶応4年)旧暦5月19日(新暦7月8日)に長岡城が落城し、同盟軍が加茂に撤退するまで本陣として使われました。
(参考文献:長岡市観光企画課 『戊辰・河井継之助ゆかりの地ガイドブック』
 稲川明雄 『決定版 河井継之助』 東洋経済新報社 平成24年8月)

「長岡藩本陣跡(光福寺)」
所在地:長岡市摂田屋1-13-35
交通 :長岡駅東口からバス20分、摂田屋上口下車で徒歩5分

光福寺の写真です
長岡藩本陣が置かれた光福寺

本陣記念碑の写真です
「戊辰戦争長岡藩本陣」記念碑

 

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