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74 島崎橋良寛歌碑

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0053429 更新日:2019年3月29日更新

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概要・良寛とのゆかり

島崎川にかかる島崎橋の写真

 島崎川にかかる島崎橋のたもとに良寛の歌碑がある。橋のすぐ脇に那須与一地蔵尊のお堂がある。
 当時の島崎は、萩川(島崎川)を通って米を運ぶ船で賑わった。島崎橋から隆泉寺への大門道には土手に柳並木が美しく続き、良寛の庵にも面していた。戊辰戦争では四枚橋付近が激戦地となり、両島崎村約300軒のうち、7~8割が焼けた。
萩川は、3.5キロ位先の椿の森から信濃川に合流し、西川を通って新潟まで2日かかりで地元の米や醤油を運んだ。
帰りは川の流れと反対になるので船を網で引っ張ることもあった。明治中頃まで盛んに行われ、このあたりの舟業者は50戸くらいあったという。

逸話
 萩川を挟んで東側は東島崎村、西側は西島崎村と分かれていた。その後、西島崎村は天領地となり、東島崎村の方は村上藩となったため、争いが絶えなかった。良寛は幕府領(西島崎村)に住んでいたが、川を挟んで対立があり、それに心を痛めた良寛は、子供たちを一緒に遊ばせたり、祭りや盆踊りの合同を説いてまわったりした。

逸話 地蔵の逸話
 那須与一地蔵尊は出雲崎の西越の庄小木の城主・荻野遠江守という殿様の守護仏であったといわれている。
 南北朝の動乱により城山に埋められた地蔵が、その後長い年月を経てこの島崎に流れ着いた。
 そして島崎の金七という人に救い上げられたと伝えられている。庵に納められ、このあたりでは金七地蔵とよばれて信仰を集めていた。
 金七により救い上げられ、庵に納められた地蔵尊が間もなく盗難にあった。
 その数年後島崎に住むまるや善助なるものが所用で三条へ旅をしていた帰りに中町通りを歩いていたところ、「善助、善助」と呼ぶ声がした。振り返ると後ろに良寛がいらっしゃって、「良寛さま、呼ばれましたか?」と尋ねると、「いいや、呼ばないよ」とおっしゃる。一緒に島崎へ帰ることになり、二人で歩いていると、「善助、ここだよ。私も一緒に島崎に帰りたいよ」と声が聞こえる。声の方を探してみると古物商の三宝屋の店先になんと金七地蔵が立っていた。
 良寛も金七地蔵だと驚いた。そんな二人の店先の様子に、店主が顔を出して「何かお気に召したものがございますか?」と尋ねた。
 善助は、実はこの地蔵様は島崎で盗難にあったものだと店主に聞かせた。すると店主は、この地蔵様は昨年の秋若い男が持ってきて、重くて運べないのでこの店先に置いて逃げるように立ち去ったと話してくれた。そして売り物ではあるが、「お金は要りません。どうぞお連れ下さい」と言う。善助は喜んで、風呂敷に地蔵様をくるんだ。
 良寛が、「お地蔵様、どうか軽くなってくだされ」と合掌すると、なんと地蔵様が軽くなった。店主も不思議だ、全く軽くなったと驚いた。
 そうして善助と良寛が無事この地蔵を島崎に持ち帰ったとの言い伝えが残っている。

全景写真

那須与一地蔵尊の写真

那須与一地蔵尊
 島崎橋のたもと。大正初期に、地蔵さまの胎内より「那須与一守本尊」なる巻物が発見され、それ以来与市地蔵尊と呼ばれている。作者は不明。1尺5寸(約45センチ)木造で金箔。
毎年、7月24日には地蔵様の祭りがあり、開帳される。常時飾られているのはレプリカ。

詩歌碑・像

良寛歌碑(わが宿を):昭和49年、島崎橋の拡幅工事の際に、業者が寄贈

良寛歌碑(わが宿を):昭和49年、島崎橋の拡幅工事の際に、業者が寄贈の画像

別の遺墨は「我が宿を」を「恋しくは」「わが庵を」と、「手折りがてらに」を「たどりたどりに」「訪ねがてらに」と。同案の歌の遺墨は多い。
この歌は阿部定珍に送った4首のうちの1首でこの歌の中「わが宿」というのは国上の五合庵である。
島崎 木村家所蔵 県指定文化財

阿部定珍 渡部(燕市)の庄屋、酒業も営む阿部家の7代目。良寛さんと親しく交わり、惜しみない援助をした

関連歌

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