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岩船港の沿革

印刷 文字を大きくして印刷 ページ番号:0123672 更新日:2019年6月29日更新

江戸時代後期

 岩船港の初見は、寛政9年(1797年)の岩船町塩除築土絵図裏書に記されています。これによると、寛政9年に村上藩が石川河口に築土し、船の難破と石川を逆流する汐を防ごうとしたときのものです。
 岩船にとって港の整備は船だけではなく、農民にとって欠くことの出来ない必要な問題であったことがうかがえます。

明治初期

 明治に入っても港としての機能が不備なため、遭難により積荷の塩や米等が流失したり、荒天で汐が石川を逆流して農作物が被害を受けたりしたものの、諸船の出入りが活発に行われ、明治6年9月の入港実績は70隻を数えました。
 また、明治12年の諸営業人名取調書によると、岩船港によって生活を支える住民の数は、戸数615,船持115,魚類商50,魚売36などがあり、海産物は小国、米沢方面にまで送られ、これら背後地域の重要な玄関口となっていました。

大正から昭和の初期

大正から昭和の初期の画像1

 本格的な港湾施設の整備は、大正4年に県議会の議決を得て、翌年の5月から石川右岸に沿い防波堤の建設が開始されました。
 しかし、漂砂のため港内埋没が著しく、昭和2年に工事を一時中止し、漂砂の移動状況を調査しています。
 その結果、漂砂は北側沿岸方向から流入することが分かり、対策のため昭和7年から工事を再開して北防砂堤を建設するとともに、港内の水深維持を図るため浚渫を行うことにしました。
 その後の港湾施設の建設は、漂砂による港内埋没の防止対策を抜きにしては考えることができませんでした。

大正から昭和の初期の画像2

大正から昭和の初期の画像3

平成から

平成からの画像

 平成7年秋には、水深7.5mの耐震構造岸壁が、平成11年秋には水深5.5m岸壁も完成し、セメント、硫酸基地も稼働しています。現在本港は、商・港として機能しており、粟島との間にフェリー型船舶及び高速船が就航し、粟島の生活や観光航路の拠点としても一層大きな役割を果たしています。
 県北の基幹港として岩船港の重要性が増大しています

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