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新潟県ホーム の中の観光・イベントの中の【南魚沼の魅力】関興寺(かんこうじ)Ⅱ
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【南魚沼の魅力】関興寺(かんこうじ)Ⅱ

2015年07月21日
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 新潟県南魚沼市(旧南魚沼郡塩沢町)にある臨済宗円覚寺派の寺院「最上山関興寺(さいじょうさんかんこうじ)」についてご紹介します。 

600年以上の歴史を持つ越後の古刹

 古くは「関興庵」と呼ばれ、応永17年(1410年)、覚翁祖伝(かくおうそでん)和尚※が、高僧の誉れ高き普覚円光(ふかくえんこう)禅師を招いて開山したのが始まりといわれています。
 はじめは関山村に禅道場を開き、その後上杉氏の庇護や上田長尾氏の帰依により、信州・佐渡・能登・越中・越後の5カ国に300カ所の寺を支配したと伝えられています。
 しかし戦国時代になると、永正9年(1512年)、天正6年(1578年、御館の乱)、文禄3年(1594年)に戦火に巻き込まれ、その都度復興したものの次第に衰退していきました。
 慶長5年(1600年)、上杉景勝が出羽国米沢に移封される際、一旦上杉氏とともに米沢に移りました。
 寛永6年(1629年)に火災に遭ったことを機に、寛文年間(1661年~1673年)に現在の地に戻り再興し、寛延4年(1751年)に名称を関興寺と改めました。

※初代関東管領、上杉憲顕の子。駿河に生まれ、各地を歴参後、普覚円光禅師に師事し、自らも関興寺の次位となる。

千手観音像

千手観音 (江戸時代)

観音菩薩が千の手を得た姿とされ、千本の手はどのような衆生をも漏らさず救済しようとする、観音の慈悲と力の広大さを表している。
坐像・立像ともにあり、実際に千本の手を表現した作例もあるが、十一面四十二臂とするものが一般的である。
四十二臂の意味については、胸前で合掌する二本の手を除いた四十本の手が、それぞれ天上界から地獄までの二十五の世界を救うものである事から、「二十五×四十=千」となっている。
右手に持つ錫杖(しゃくじょう)や左手に持つ宝戟(ほうげき)などの千手観音の持物(じもつ)については、『千手千眼陀羅尼経』などの経典に説かれている。
以前、この千手観音は、法堂(はっとう・関興寺の住持が説法をする御堂)の須弥壇(しゅみだん)に祀られていた。
いくつもの顔や沢山の手を持つことから、神秘的であると同時に、
一人でも多くの人々を救済しようとする慈悲に満ち溢れており、数ある関興寺仏の中でも、本尊である釈迦牟尼仏についで人々に尊崇され、日本人にこよなく愛されている仏様の一つである。

千手観音 (江戸時代)

十万石の駕籠

十万石の駕籠 (江戸時代 一七九〇年代頃)

一石は十斗、大人一人が一年に食べる米の量の事である。
これを兵士たちに与える報酬とみなせば、石高×年貢率と同じだけの兵士を養えることになる。
つまり石高は戦国大名の財力だけではなく兵力をも意味していた。
この駕籠(かご)は、約二百年以上前、関興寺住職が徳川幕府より十万石の格式を与えられた際に寄進され、江戸城登城の際にも使用されていたものである。
駕籠の中でも、公家や武家が乗るような装飾が施された大名駕籠は、一般的に黒塗であるが関興寺の駕籠は朱色に塗られ、寺紋の五七の桐が刻まれている事から、一目見て関興寺の住職が乗っている駕籠と分かる作りになっている。
身分制度の厳しい江戸時代では、大名の参勤交代の折、十万石に満たない大名は、この駕籠に道を譲ったとの事である

十万石の駕籠 (江戸時代 一七九〇年代頃)

屋久杉の戸板

屋久杉の戸板 (江戸時代 一七七〇年代頃)

上段の間の欄間と同じく、屋久島の屋久杉で作られた戸板。
樹齢千年以上の屋久杉を一枚板にし、虎・鶏などが描かれている。
江戸時代安永年間の作と見られ、二〇〇年以上経った現在でも色褪せずに見事に残っている。
この戸板は元々「武者隠しの間」の隠し通路前にあり戸板を開けると、殿様の逃げ道となる仕組みとなっていた。
虎の絵は、豹柄耳無しと、特徴のある作風で、江戸時代では、牝の虎は豹柄であるとされていたため体の模様は豹柄となっている。
また虎に耳が無いのは、控えている近習に対して「殿様と住職の内密な話を聞かなかった事にしなさい。」
との意味合いからあえて耳が描かれていない。
江戸時代でも屋久杉は貴重な用材であったため、当山でも「上段の間」付近でしか使用されておらず、新潟県下でも数少ない貴重なものである。

屋久杉の戸板 (江戸時代 一七七〇年代頃)

江戸長重譲り状

江戸長重譲り状

弘長元年(1261年)に、地頭である江戸長重より五代執権・北條時頼あてに送られた書状。
近年、飢饉が続き(正嘉の飢饉)領地経営が成り立たないため、北條得宗家に領地を返上し、自ら被官となる旨が記されている。
「前島村」とは、現在の「東京駅周辺」のことであり、現存する文書ではこの譲り状が前島村の初見資料(最古の文書)であるため、
東京の歴史を知る上では極めて貴重な中世文書といえる。

江戸長重譲り状

太田道灌あて書状

太田道灌あて書状

道灌が、康正2年(1456年)に家督を受け継いだ「享徳の乱」のころ、
敵対する古河公方「足利成氏」の有力武将である「小山持政」から出された書状。
上州において、勢力範囲の申し合わせを行っている貴重な文書である。

※太田道灌は、扇ガ谷・上杉家重臣で太田資長のこと。江戸城を築城した。

太田道灌あて書状

アクセス等

○所在地:南魚沼市上野267  

○アクセス:関越自動車道塩沢石打ICから車で約5分
        JR上越線石打駅から車で約5分

○拝観料:無料

○拝観時間:午前9時~午後4時

○駐車場 :普通車15台(大型車可)

○問合せ先:関興寺 025-783-2111
 なお、掲載内容については正確を期すよう努めていますが、限られた時間での取材であるため、不十分な点がある場合もあります。
 また、ご利用の詳細につきましては直接、施設管理者へお問い合わせください。
お問い合わせ先:関興寺 TEL025-783-2111

【変更履歴 2014年6月6日掲載、2015年6月30日江戸長重譲り状、太田道灌あて書状追加2015年7月21日関興寺リンクアドレス、2016年7月13日変更】