9月25日(金曜日)
AM10:00過ぎに新潟県のJR直江津駅に降り立った。
今から2泊3日の「上杉戦国観光プラン」のモニター旅行の始まりである。
このプランは新潟県交通政策局交通政策課が事務局、佐渡汽船観光主催のツアーだ。
上杉戦国観光プランとは物々しいツアー名だが、このモニター旅行参加には条件があった。
それは、①東京・神奈川・千葉・埼玉に在住であること ②戦国時代ならびに歴史に興味のある人 ③二人で参加できること ④モニター旅行後、旅行記を書く事 であった。
①は楽勝(神奈川県在住)、②は何とか付いていけるであろう程度だが大河ドラマ
「天地人」を見ているのでどうにかなるだろう、③は会社の後輩を誘う事でクリア、④は帰ってから考える、ということで応募、有難く当選の通知を頂戴し参加に到った。
今回の旅行は、上越市~佐渡の各名所を訪れることだった。
佐渡には仕事で何度か訪れたことがあるが、上越市は生まれて初めて訪れる土地である。
旅行に行く前に新潟県の事務局からあらかじめ日程表を頂いていたが、碌に確認もせずにノコノコと参加し、今日この初日を迎えていた。
「さて、これからどこに行くのかな?」
早速迎えのバスに乗り込み、この旅行の一番最初の目的地「御館跡」に行く。
御館は、上杉謙信死後、謙信の二人の養子である景勝と影虎が跡目相続で争い、大規模なお家内紛で激しい戦闘が繰り広げらた「御館の乱」がおきた場所だが、その当時を偲べる建物は何もなく、街中の一角にある公園と化し、「御館跡」の碑が立っているのみだ。
今では近所の幼稚園児が賑やかに遊ぶのどかな公園である。
この御館跡から歩いてすぐのJR線路沿いから春日山を望むことができる。
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次は「越後上越 天地人博」へ。 今年の大河ドラマ「天地人」のドラマの舞台裏を見られるもので、会場の入り口に直江兼続の「愛」の冑がおいてある。勿論、かぶって写真を1枚収めた。
意外と重たい冑。
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冑は見た目よりも結構重たい。ずっとかぶり続けていると首も肩も石のように凝りそうだ。当時は冑の他に、胴体には鎧を纏い、腰には大刀をぶら下げていたわけだから、総重量はいかほどであったのだろう?
会場の中は実際に天地人に出演の役者さん達が袖を通したであろう衣装やらメイク道具やらがおいてあり、自由に見ることができる。
また直江兼続を中心に上杉家や戦国時代の歴史もちゃんとわかるようになっている。
ドラマで実際に使われた、兼続から石田光成へ送られた密書などの小道具もおいてある。
ドラマで出てくる石コロや砂利などは、画面でみるといかにも本物っぽくごつごつと痛そうだが、小道具としての石コロは軽くてやわらかいので、画面上壮絶なシーンであっても役者さんたちにあたったところで殆ど痛みはないと思われる。
館内の中央部にはドラマの大きなセットが組み立てられており、そこでは実際に着物に袖を通して記念写真を取ることもできる。
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撮影用衣装?を纏ってみました。
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途中、何台か配置してあるモニターには出演者の方々のビデオレターのVTRが四六時中流されており、華やかな雰囲気をかもし出す。
順路の最後、出口直前には「上杉家訓」が掲げられており、世の道理、人の道が淡々と説かれている。
「心に物なき時は心広く体秦なり」
「心に我慢なき時は愛敬失わず」
「心に欲なき時は義理を行う」
「心に私なき時は疑うことなし」
「心に驕りなき時は人を敬う」・・・
等、全部で16か条からなる。
さて、そろそろ時刻はランチの時間。
初日のランチは上越名物「かちどき飯」を松風園で頂いた。
「かちどき」とは戦で勝利した際に叫ぶ「えいっえいっおーっ!」のこと。
謙信公は普段は一汁一菜の質素な食事だったようだが、ひとたび出陣ともなれば、部下たちに豪華な食事を振舞ったとされる。
謙信公が勝利を願って用意した当時の食事を忠実に再現したものだ。
そもそもこの「かちどき飯」は上越市役所のご担当のアイデアだそうで、上越市の地元の料理人の協力を得て、昔の文献を紐解き、仕込配合、酒造法を忠実に再現するために、約2年かけて開発された渾身の作品だ。
謙信公が存命の頃にはまだ醤油、砂糖などの調味料はなく、塩、糠、味噌などを巧みに利用して甘さ、辛さを出していたという。
更に当時の刺身(「戦国刺身」と命名されている)は今のような生ではなく、酢で洗ったものにわさびやしょうが等を薬味に添えて、潰したずんだ豆と酢をあわせた「ずんだ酢」、酒に鰹節、梅干を煮詰めた煎り酒につけて食すものだったようだ。
「けずりもの」と言われる当時の酒宴で必須の料理は、するめと鰹節を煎り酒に浸したもので、まだ醤油がなかった頃はこの「煎り酒」が醤油の代用品だったようだ。
更に儀式や饗宴に必ず出たのが「集め汁」、今でいう、お味噌汁に近いもので具は季節の野菜と干した魚をいれたのもの。その他にも糠味噌煮(今でいう煮物?)、御浸し、焼き物などがそろう豪勢な食事だ。
主食は黒米と呼ばれた玄米。戦国時代の米といえば玄米だったとか。
テーブル一杯にお皿が広がっている様はいかにも和食のフルコース然としているが、何せ、醤油も砂糖もない時代の味・・・。一抹の不安を胸に抱きつつも、刺身を一口ほおばる・・・。
あら。意外に美味しいし、味も思いのほかしっかりとしていてイケる。
削りものも糠味噌煮もイケるじゃないのっ!
要は、このかちどき飯のおかずは全て「お酒のつまみ」で、つまりは謙信公のお酒好きから始まっているということ。
ついでに言うと、当時の食材はどれもこれも咀嚼回数を多く必要とするもので、噛む回数も多くなり味付けも含めてすこぶる健康的である。
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今回のかちどき飯はこれが全て。料金によって 品数も中身も違う。
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お腹も膨れたところで、午後は「越後上杉戦国物語展」を見てから林泉寺へ。
林泉寺は謙信公の菩提所。
受付脇に建つ惣門は唯一、当時から残る貴重な建造物で、謙信公によって春日山城から移築されたものだが、数年前の台風で門が傾き、現在では直に門をくぐることはできない。
堂々たる山門は謙信公建立のものだが、江戸時代の地震により焼失、大正時代に再建されたもので、表には「春日山」、門をくぐった裏手には「第一義」の大額が掲げられている。
現在掲げられている大額は最近のもので、当時からある本物は宝物館に展示されている。
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「第一義」の大額
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さて、これからいよいよ初日のメインともいえる春日山城に向かう。
ここでは林泉寺から合流した地元のボランティアガイドさんの説明を聞きながら行動する。
まずは春日山神社にお参りするのに134段の階段を上らなければならない。
上を見ながら上ると途中で嫌になりそうだったのでひたすら足元だけを見つめて登った。
また、階段の数を数えながらだと、これまた嫌気が差しそうだったので階段の数は数えずに上った。だから本当に134段だったかどうかは私の場合は不明である。
神社本殿にお参りし、神社の横手から山登りをして春日山城址を巡る。
御館同様、残念ながら当時の建造物は一切残っておらず、全て碑が立っているだけである。
歩き始めの道は舗装されている現代の道路なので歩きやすいが、途中から中世の道、つまり舗装されていない道になる。今日はお天気もよく土も乾いていたので特に問題なく歩けたが、雨が降ったり、降った翌日などは道がぐじゃぐじゃになり、かなり難儀な歩行になろう。
いやいや、晴れていてよかった。
中世の道には下から上に山道を登る際に、クネクネと曲がった道の先に「虎口」と呼ばれるちょっとしたスペースが設けられているという。
これは下から来る人には死角になる場所に作られるスペースで、敵が下から侵入してきた時に、死角スペースで潜んで待ち伏せして敵に攻撃をしかけることができるスペース。
下からは全く虎口は見えない。うまくできているもんだ。
ところどころに家臣の館跡の碑が立っているが、実はどこに誰の屋敷があったかなどの詳細は不明だとか。
どこに誰が住んでいるという情報はいわば軍事機密情報の一部であり、外部にわざわざ報告する内容ではなかったため本当の場所は特定できない。
だから現在、碑が立っているところは「だったらしい」ということであって確実ではない。
山を登って最初の屋敷跡は上杉影虎の三の丸屋敷跡である。
春日山の中でも最も良好な状態で土塁が残り「米蔵跡」とも呼ばれ、城機能の中核施設があったとされる。
ちなみに影虎は米蔵を押さえ、景勝は金蔵を押さえたとされているが、結果は金蔵を押さえた景勝が勝利している。何時の世も最後に物を言わすのは金の力ということか・・・。
影虎は御館の乱で非業の死を遂げるが、今でも若い女性が影虎を慕って沢山訪れるという。
もう少し高台まで行くと今度は影勝屋敷跡だ。
御館の乱で勝利し跡目を相続したにふさわしく、総じて大規模な土地だったようだ。
ここに景勝屋敷があったとするならば、兼続もせっせとここに通ってきていたのだろう。
中世の道が続いている訳だから確実に彼らがここを歩いたことになる。
うーむ。。。返す返すも何かちょっとでも建造物が残っていてくれたらもっと当時を偲んで歴史のロマンに浸れるだろうに・・・本当に残念である。
景勝屋敷跡を後にししばらく行くと、どでかい井戸がでてくる。
今では井戸のグルリは囲われているが、直系5Mぐらいはあろうかという代物。
この井戸は今でも満々と水をたたえているそうだ。
当時、どの程度の地質調査を施したか不明だがちゃんと水が沸く原理をわかっていたというから大した物である。井戸さらいの際に滑車や杓などが見つかっているらしい。
Bigな井戸を通過するといよいよ春日山の頂上本丸跡にたどり着く。
現在は上越市を一望できる展望台になっているが、当時は本丸の窓から謙信公が城下を見下ろし、越後の国を守る施策をあれこれと思いめぐらしていたのかもしれない。
本丸の頂上についた頃には少しずつ初秋の日が傾きかけてきただろうか。
そろそろ夕方になる時分の木漏れ日はどことなく郷愁を誘い、遠い古の時代を生きた武将達の夢の跡を偲ぶにはうってつけの演出となる。
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春日山頂上からの眺望。
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本丸を過ぎると今度は下り道。下りの最初に出てくる屋敷は直江兼続のもの。
やっと真打登場!といったところだが、ここも碑だけなので、正直何となく物足りない。
兼続屋敷跡も比較的高台にあり、見渡す山々はこれから紅葉に色づくための準備をしているようにも見える。
兼続もこの屋敷があった場所から四季折々の山々の姿を眺めて過ごしたのだろうか・・・。
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兼続屋敷跡。ほんのわずかでも何かが残っていてくれていると良かったのだが・・・。
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春日山を後に今宵の宿「ロイヤルホテル小林」のある鵜の浜温泉へ向かった。
17:00前に宿に到着、夜ご飯までつかの間、部屋でくつろぐ。
旅の最大の楽しみは食事。ここロイヤルホテル小林の夕飯は、新鮮はお刺身をはじめ、豚しゃぶ、天麩羅、蟹、鮑のステーキと絢爛豪華な食事ですっかりお腹も満たされた。
食事の後はこれまた旅の醍醐味の一つである温泉に入ってお休みなさい・・・。
9月26日(土曜日)
二日目は佐渡。
過去、佐渡への航路は新潟港でジェットフォイルという高速船に乗船して佐渡の両津港に入るのを常としていたが、今回は直江津港から佐渡の小木港に入るルートを使う。
更にジェットフォイルではなくカーフェリー乗船だ。
ジェットフォイルの所要時間は1時間だがカーフェリーは倍以上の2時間半をかけて行く。
午前中をほぼ丸々使っての移動だ。
「ジェットフォイルで行けば1時間でいけるのに、2時間半も移動に使うなんてもったいない」と思い、更に「2時間半もの時間をどうやって潰そうか?」と悩んだ。
カーフェリーは一等客室と二等客室があり我々は勿論二等客室の切符。
一等には一人ずつのスペースが確保されており毛布も用意してあるが、二等は大広間で自分専用スペースを自力で確保し毛布は別途¥100を支払って借りる。
私たちが乗船した日は比較的空いており、一等客室には殆ど人がおらず、二等客室もかなり空いていたので、大広間スペースをほぼ身内で独占できる状態だった。
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カーフェリーの二等客室。この日は空いており余裕でスペースを確保。
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船内はとても広く、売店やイベント広場などもある。
今日も天気は快晴、海は穏やかで青く美しい。
ガラガラの二等客室の大広間で大の字になって寝てても良かったのだが、この日は10:00~船内イベントが開催されるということで、イベント会場には大勢の人が集まっていた。
イベントは「天地人クイズ大会」やら地元の方々が演じる佐渡おけさの観賞と講習会等が開かれ、かなり盛り上がった。私も佐渡おけさの講習を受け16パターンある佐渡おけさステップを学び船内時間を楽しんでいたら、あっという間に佐渡小木港に到着した。
ジェットフォイルでぴゃあーっと行くのも効率的だがカーフェリーでのんびりと船内を満喫しながら時間をかけて海上移動をするのも良いものだ。
最初に時間つぶしに悩んでいたのが嘘のようだ。
朝の9:30に直江津港を出発、佐渡到着は既は丁度正午。
ランチは「花の木」で豪華な和食に舌鼓を打ち、満腹のお腹を抱えて、さあ、佐渡観光へ!
佐渡は縄文時代から人が住み、平安から鎌倉にかけては遠流の島となり、江戸時代には佐渡金山で栄えた島。
この佐渡金山の利権をめぐって佐渡島内の諸領主が対立、中には上杉家と手を結ぼうと景勝に助けを求める領主もいた。これを受けて兼続率いる上杉軍は佐渡へ上陸、上杉よりの領主の手引きもあって次々に各拠点の城を攻略、圧倒的な兵力と軍事力の差をもって上杉軍が圧勝、戦いはわずか数日で決着が付き、佐渡全島を上杉軍が平定、傘下におさめたとされる。
佐渡島民から見ると上杉家は外から土足で勝手に踏み込んできて島内を戦で陥れた狼藉者と思われていたかと思いきや、長年の島内混乱が収まり、その後も兼続らの施策が島内を活性化させたことなどもあって、島民の上杉家への感情は悪くなかったという。
そんな歴史を背景に、車中から羽茂城址を眺めて今日の観光の目玉の妙宣寺へ。
妙宣寺は日蓮宗佐渡三本山の一つで、ここには兼続が奉納したと伝えられる槍の穂先が飾られていて直に見ることができる。
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妙宣寺五重塔
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妙宣寺境内には新潟県内唯一の五重塔があり国の重要文化財に指定されている。
江戸時代の相川の宮大工によって建立したものといわれ、日光東照宮の五重塔を模したとされる。今でも建築業界に携わる人々が沢山訪れる建築学的にも素晴らしい建物だそうだ。
その後、佐渡博物館を見学、最後に河原田城址を訪れた。
街の高台にある河原田城址の場所は今では高校が建っており、通常ならば高校にお邪魔して見学ができるのだそうだが、この日は模擬試験日とのことで、当時の城下町(?)から高台の高校を眺めただけで終了。
今夜の宿は相川地区にある「ホテル万長」。
相川地区の宿泊施設の殆どは海に面して建っているため殆どの部屋がオーシャンビューである。17:00頃に宿に到着、丁度夕日が海に沈む頃合いだったので、夕食まで海辺をお散歩。
この日は佐渡汽船観光の添乗員(藤田さん)のお取り計らいにより、別のホテルで開催の地元の「立波会」の方々が演じる佐渡おけさショーに皆で出かけていった。
まずは本場地元の方々の佐渡おけさを観賞、その後、今朝のカーフェリー同様、佐渡おけさの踊りの講習会が開かれ、踊りたい人は誰でも飛び入り参加ができた。
「同じアホなら踊らにゃ損!」ってことで、上杉戦国ツアーのメンバー老若男女の殆ど全員が飛び入りで講習に参加した。
朝同様、佐渡おけさの16のステップを学んだが、流派によってステップは微妙に異なるものらしい。朝、習ったことは残念ながら活かしきれなかったが、朝、習っておいたお陰で佐渡おけさをより身近に感じることができた。
ここで佐渡おけさ講習会に参加した人全員に「修得証」がもらえ、上杉戦国ツアーのメンバーのほぼ全員が佐渡おけさの踊りを修得した。
今日は佐渡おけさに始まり、佐渡おけさで終わった1日だった。
9月27日(日曜日)
最終日の朝、部屋の窓から外を見ると空も海も青く、水平線がくっきりと見える。
朝日に煌く海がこの旅行のフィナーレを飾ってくれているかのようだ。
お世話になったホテル万長を後にバスは佐渡金山へ向かった。
佐渡金山に行く手前に佐渡奉行所があり、車窓からの眺めとなった。
これは江戸時代当時の奉行所を忠実に再現したという建物。
「忠実に」に再現しているということで、建物の外観は勿論だが、それは内装にも及んでいる。
当時は今と違って窓があったわけではないので、部屋は吹きさらしになっているとのこと。
バスガイドさん曰く、「夏は涼しくて良いが冬は寒くて仕方ないのでお勧めできません」と。
なるほど。冬の京都のお寺の板の間等も、ストッキング1枚では足元からジンジン寒くなって、最終的にはそこに立っていられないほど足が冷たくなるが、きっとそういう感じ、いや、それ以上に寒いのだろう。
個人的にはこの佐渡奉行所は車窓からではなく、降りて中を見学したかったが、次回持ち越し、ということでまた佐渡を訪れる大義名分ともなるだろう。
そうこうしているうちに佐渡金山入り口に到着。
佐渡金山には「宗太夫抗」と「道遊抗」がある。宗太夫抗は江戸時代の金山内部を忠実に再現している見学コースで、道遊抗は明治32年に佐渡金山の主要鉱脈「道遊脈」の開発を目的に開削された主要運搬坑道で、平成元年まで使用されていたという見学コース。
まずは江戸時代の「宗太夫抗」から見学。模型で見ると、金山坑内はまるで蟻の巣のように穴が掘りめぐらされている。穴によっては大人一人がやっとはいれる程度の大きさの穴もある。
坑内から地上に鉱石を運び込むのは全て人力で、集められた鉱石は砕いてすりつぶして金銀の砂泥にし、炭火で化学反応を起こして純度99.5%の高い金が小判になっていた。
坑内労働者、貨幣製造関係者の全てをあわせるとその人数は膨大だ。
江戸時代、この坑内の労働環境は今からでは想像もつかない程の劣悪な環境だっただろうが、既にこの時代でも金銀の生産技術は高く、平成元年の操業停止まで国内最大を誇る金銀山だった。
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見学コースの一部。
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佐渡金山の坑内肉体労働者というと、とかく罪人が請け負っているイメージが強いが、実は「無宿人」が働いていた。
無宿人は何らかの事情で戸籍を抜かれた者であって、罪人ではない。
当時、江戸は無宿人が職を求めて続々と集まっていた。
彼らは罪人ではないが、「戸籍を抜く」ということは、大なり小なり何らかの曰く付きだ。
無宿人が多ければ多いほど江戸の治安を保つことが難しくなる。そこで「じゃあ、無宿人を佐渡金山に送ってしまえ」ということになった。
無宿人はそもそも「職を求めて」放浪していたわけだから、佐渡金山といえども職にありつけ賃金をもらえるならば、これに越したことはない。
だが、実際には一旦、坑内労働者になると殆ど外に出ることができなかった。
たとえ賃金をもらえても諸経費が差っぴかれると手元に残るのはわずかな金額、何年、何十年と働いてやっとそこそこのお金が溜まったときには、体は長年の重労働による酷使でぼろぼろになっており、親方に自分のお墓を立ててもらうことで一生を終わった者も多いという。
ちなみに佐渡には相応数の罪人も流されてきていたが、この罪人は佐渡金山で働かされた無宿人と違って、比較的自由に島内で生活できたというから、世の中は時として無情だ。
次に明治時代の道遊抗コースを見学。さすが、平成元年まで使用されていたとあって、宗太夫抗コースとは比べものにならないくらい近代化されている。
坑内道路一つとってもものすごく歩きやすい。
鉱山操業には採掘をはじめ、様々な作業が機械化された。トロッコをはじめとする工作機械類は今では国内では殆ど目にすることのない貴重な産業遺産となっている。
佐渡金山のお土産屋さんには金山らしく金製品が沢山販売されており、本来であればゆっくり吟味して気に入った製品があれば購入したかったのだが、何せ、今日最終日は12:35両津港発のジェットフォイルに乗船する予定だったため、かなり急いで効率よく回らなければならず、佐渡金山はこれにてタイムリミットとなり、土産屋さんをみることはできなかった。残念・・・。
いよいよこの上杉戦国観光プランの最終見学場所である佐渡歴史博物館へ向かう。
ここは佐渡に配流された順徳天皇、日蓮聖人、世阿弥の紹介、日本の代表的昔話の安寿伝説、夕鶴伝説、おけさ伝説の紹介をしているが、すべてからくり人形を使っての紹介説明なので楽しんで見て回ることができる。
特に昔話のからくり芝居は笑いを誘ってしまうほど、ほのぼのとした演出になっている。
館内の最後の見学コーナーは鋳金家人間国宝佐々木象堂氏の記念館になっている。
皇居新宮殿の棟飾りの「瑞鳥」が有名で、この佐渡歴史博物館の入り口屋根に大きな瑞鳥がある。瑞鳥は幸運を招く鳥といわれており、お土産に瑞鳥を施した品々が販売されている。
佐渡金山でゆっくりとお土産を見ることができなかったのをここで挽回、瑞鳥が刻印されているゴルフマーカーを購入した。
これで次回以降のゴルフラウンドはスコアも伸び、完璧なこと間違いなし!
旅行最終日の今日9月27日は日曜日、ここで一つ、サプライズがあった。
佐渡歴史博物館のお土産コーナーには北朝鮮から戻られたジェンキンスさんがいらっしゃる可能性がある、という話がバスの中であった。
ちょっと期待しながらお土産コーナーに行ってみると、そこにはあのジェンキンスさんがにこやかに立っていらした。
午前中だったせいもあってお土産コーナーには他にあまりお客さんがいなかったので、ジェンキンスさんにお願いして一緒に写真を撮っていただいた。
最後の最後に嬉しいサプライズがあった。
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ジェンキンスさんと一緒に。
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さて、ここで今回の上杉戦国観光プランのすべての行程が終了、あとは両津港から新潟港に帰るのみである。
一抹の寂しさを覚えながら、両津港に向かった。
このツアー最後のランチはジェットフォイル船内で「トキの里山弁当」を頂いた。
竹の皮で作られたお弁当箱で、中の具材もすべて、生産者の名前が記載されている安全で安心のお弁当だ。
最終日ともなると2泊3日を一緒にすごしたメンバーとも仲良くなっており、帰りのジェットフォイル船内は席の近い者同士で新潟港に着くまで話に花が咲いた。
名残惜しくも船は新潟港に到着。
新潟駅迄の最後のバス移動。
旅のあれこれを振り返り、たった2泊3日ではあったけれども、沢山のものを見て回ることができたな、としばし感慨にふけった。
上杉戦国観光プランの目的は直江津・小木航路の活性化で、このツアーそのものが試験的であり行く前は堅苦しいイメージもあったが、3日間を通してお天気も良く、行く先々で色々な発見があり学ぶこともでき、そして何よりも参加者の皆さん、添乗員さん、事務局のご担当者など、すべてのメンバーに恵まれたことが、この旅行を2倍にも3倍にも楽しく感じた要因だったことは間違いない。
あっという間の3日間だったが、上越~佐渡の旅は最高の形で終了した。
この先で機会があれば是非また訪ねたい場所である。
最後に、新潟県の長谷川さん、佐渡汽船観光の藤田さん、各エリア毎に現地で付いてくださったご担当者の皆様、上杉戦国観光プランでは本当にお世話になり、ありがとうございました。
この場を借りて御礼申し上げます。