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直江津港

2011年09月15日
直江津港
直江津港

湊町の歴史

【直江津】
 関川(せきかわ)河口に開かれた港津・港町の総称。古代の越後国府の有力な比定地で、北陸道水門(みと)駅(「延喜式」兵部省)の所在地ともされ、頸城(くびき)郡妻有(つまり)郷に属した。地名が見える早い例は南北朝から室町時代にかけて成立した「義経記」、謡曲「婆相天」などで、「義経記」巻7「判官北国落の事」に「越後国直江の津は北国道の中途にて候へば」を始め3箇所に見える。「婆相天」には「斯様に候者は東国舟の船人にて候、順風吹きいでて候程に越後国直江の津に舟をのらばやと存じ候」「是は西国舟の船頭にて候、云々」と東国船・西国船の船頭が沖合で出会うところから始まる。このように直江津は古くから港湾都市として発展し、南北長期以降越後国府・守護所が置かれると一層発展した。中世には東西船の分岐点であり、境界的性格を持っていた。
 直江津の地名由来については豪族直江氏からきたものとする説もある。
 中世には、現直江津地区・五智(ごち)地区を府中(ふちゅう)・府内(ふない)と称し国府(こう)ともいった。地名府中は鎌倉末期から見え始める。南北朝初期以降越後国府・守護所が置かれていたことは確実で、港湾都市の性格に加え政治都市として発展した。式内社居多(こた)神社、府中八幡宮、愛宕神社、国分(こくぶん)寺等のほか、守護上杉氏に関係深い禅宗寺院至徳(しとく)寺・安国(あんこく)寺等が甍を並べ越後の文化の中心として繁栄した。特に上杉謙信の時代には謙信の政庁御館(おたて)が五智地区に築かれ、居城春日山(かすがやま)城の膝元春日町とともに城下を構成し、最盛期を迎えた。
 港湾・商業機能を具体的に示す史料は少ないが、永禄3年(1560)5月13日上杉景虎は府中町民に5カ年間の諸役免除条目(上杉家文書)を発しているが、そこには当時府中に鉄、青苧(あおそ)、茶、薬などを扱う伝馬問屋や船問屋、麹屋、酒造業などを営む商人がいたことが知られる。条目中に青苧座の記載があり、青苧の特産地の一つであった頸城(くびき)一円のものが府中に集荷され、当港から積み出しされたものであろう。室町時代青苧座は当地の他京都、近江坂本、摂津天王寺にあり三条西家が支配していた。
 近世の称を今町(いままち)といい、廻船式目の写しである、廻船大法に七湊の一つとして「越後 今町ナヲヤ直江なり」とみえる。(郷帳類に今町と記されるが、町会所記録には直江津今町とあり、一般的には直江津あるいは今町と呼称された)
 慶長12年(1607)福島(ふくしま)城が完成すると直江町、小町の移転や高田城下に商業機能が集中され今町の経済的地位は低下したが、港の機能は維持され米の積出し、頸城、信州への塩、四十物、鉄、日用品の移入港として重要であった。
 延宝9年(1681)高田城請取諸事覚書に新(しん)町、川端(かわばた)町など10町を擁す今町の家数612、人数2937。延享3年(1746)直江津今町村鑑帳では家数830、うち本家637、借家63、地借り57、店借り60、寺境内門前13。人数3064、うち出家32、禅門4、山伏2、医師3、座頭8。問屋10、酒屋2、質屋6、家大工2、鍛冶屋7などの他船大工24、漁業55、小揚屋106、小宿200余。船数117、うち川舩30、廻船17、漁船34、請買船15、大謀船17、投網船4。今町の漁師は魚を捕っても高田城下の田端問屋を経由しないと売買できなかった。
 寛政12年(1800)の届書に「直江津今町浜ハ、字関川尻北海荒浪吹晒し此場所ニ而、船懸り候澗無御座、四、五百積候空船湊口ヘ漸引入候場所ニ而、云々」と良港ではなかった。
 天明3年(1783)から5年の入津総量では塩77,788石余、銑鉄類(砂銅とも)18,194束、茶23,9531斤、四十物(26種類)22,871箇のほか瀬戸物類、砂糖類、木材類。積出量は3年間で米65,779石余、大小豆・小麦5,933石余、干鰯・油粕180,361俵。
 天明6年(1772)今町湊移出入物資書上帳の入津荷の捌先は塩の9割、銑の8割、鉄の5割、茶の3割、四十物のほとんど、瀬戸物類2割、砂糖類の3割は信州であった。
 明治初年の今町は九軒(きゅうけん)町、出村町を入れ計14町。明治11年(1878)今町を直江津に改称することが認可され、以後直江津を冠して呼ぶのが正称となった。
 明治19年(1886)15町を統一して直江津町となった。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)
追記:
 メタンハイドレート(Methane hydrate)は低温・高圧下で、水分子が立体の網状構造を作り内部にメタン分子を取り込んだ氷状結晶で、燃焼時のCO2排出量が石油や石炭の約半分であることから地球温暖化対策の有効な新エネルギーと期待される。
 平成18年(2006)上越市沖水深約900mの海底に露出した熱分解起源のメタンハイドレートが確認された。南海トラフなど海洋のメタンハイドレートの多くは、海底下数百mに分布しており、上越市沖のように海底に露出している例は極めて珍しい。
(参考:地球惑星科学専攻教授 松本良)
追記:
供養塔
供養塔
 安寿姫と厨子王丸の物語は、昔は謡曲「婆相天」、近松門左衛門作の浄瑠璃、近年では森鴎外の「山椒太夫」などによって知られる。物語中のモデルとなった応化の橋(越後府中から荒川(関川)に架せられた橋で、往下橋、逢岐橋、王源橋などと見える。一説には、和泉式部の歌「名古の継橋」が応化の橋の前身ではないかともいわれている。「安寿と厨子王」の悲話で知られる。
 上杉謙信は、この橋に通行税を課した。御館の乱でくずれ落ちたが、景勝が修復した。松平忠輝の高田築城と共にこの橋を廃したので、以後、明治5年(1872)まで旅人は高田城下をまわり稲田橋を渡らねばならなかった。明治の初めの頃まで荒川の水が涸(か)れる時、橋杭が見えたと伝えられている。なお、応化の橋の名は、高田城下の青田川をはさんで長門町、中屋敷町(現、東本町2・3)にかかる橋にその名が伝えられる。)は今はなく、荒川橋近くにこの供養塔が建てられていたが、昭和62年3月に関川改修のため現在地に移築された。この供養塔は林芙美子の「放浪記」で紹介されている。
 「山椒太夫」・・・永保初期(11世紀末)、陥れられて西国へ追放となった奥州陸奥国の大守、岩城判官正氏のあとを追って旅立った妻は佐渡へ、安寿姫と厨子王丸の姉弟は丹後へ売られてしまった。姉弟は残忍な山椒太夫に酷使されながら逃亡の機会を見つけたが、弟を逃がすため安寿姫はつかまって殺されてしまう。無事のがれた厨子王丸はのち京に出て養子となり、やがて父の罪も許されて、丹後・越後・佐渡領域をいただいた。そして丹後におもむき、山椒太夫を死罪にした厨子王丸は、佐渡へ旅立ち、母を訪ね歩いた。道端で鳥追いの老女が “安寿恋しやホウヤレホウ厨子王恋しやホウヤレホウ鳥も情あるものなれば追わずとも去れやとうとうに“と歌っていた。それは、なつかしい母の変わり果てた姿であった。
(出典:本文は上越観光コンベンション協会、応化の橋は上越ふるさと散歩)