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寺泊港

2009年12月03日
寺泊港
寺泊港

湊町の歴史

【寺泊】
 寺泊(てらどまり)町は「延喜式」兵部省北陸道越後国駅馬の「渡戸(わたりへ)」(船2疋)に比定され、また渡部をその遺称地とする。佐渡国の国津松ヶ崎(まつがさき)とを結ぶ越後の国津とされる。「袖中抄」弘仁13年(822)国分寺尼法光が百姓済度のため「越後国古志郡渡戸浜」に布施屋を建て、墾田40町余と渡船2艘を施して往来の人を穏便ならしめたとある。
 「義経記」巻7に「米山を沖懸けに33里のかりやはまかつき、しらさきを漕ぎ過ぎて、寺お泊に船を著け、くりみやいしを拝みて」とみえる。「承久記」に佐渡国配流となった順徳院は承久3年(1221)寺泊より佐渡に渡った。片町に船出の場所と伝える王の澗(おおのま)がある。「吾妻鏡」元仁元年(1224)2月29日条に高麗人漂着の記があり、下荒町に高麗人漂着の場と伝える唐船澗がある。また文永8年(1271)には日蓮が寺泊津より佐渡配流となっている。
 天正7年(1579)直江兼続は「寺どまり かみはやし問屋」に宛て海陸運送の問屋を永く勤めた功により町の両側20間ずつの家役を免除している。慶長3年(1598)上杉景勝の会津移封後は三条藩堀氏領となり、渡部に城を定めた柴田佐渡守支配となった。元和元年(1615)から慶安2年(1649)は高田藩、宝永6年(1709)まで村上藩、同7年まで幕府代官支配、寛保元年(1741)まで高田藩松平領となり、松平氏の移封に従い白川藩、桑名藩と変わり、柏崎陣屋支配で明治に至る。
 寛保2年(1742)の町明細帳では田14町3反余、畑43町3反余、地子13町8反余。村高384石1斗余のうち塩釜野手17石4斗がある。戸口は567軒、男1654、女1560、男馬30。家数のうち海漁師263、船大小53。小廻船11。諸職に造酒屋10軒、糀屋4軒、桶屋3軒、鍛冶屋2軒、紺屋4軒、大工1人でいずれも小物成を納める。
 寛政3年(1791)の町明細帳では小物成の中に背腸、刺鯖、鱈などの漁業運上が多い。同12年(1800)寺泊町返答書に沖漁・磯漁・網漁に触れ、事に鱈、鯖の風味がよいので元和6年(1620)より鱈場札を受け幕府に毎年30本上納した。人口は天保4年(1833)に5641人になるまでは3千人台で推移していた。その後文久3年(1863)の6128人と漸増をみせる。石高の伸び以上に増加していく人口を支えたのは漁業と50石積の小廻船といった海の生業であった。漁法は沖漁、磯漁があり、磯漁は岩礁が多いため引網ではなくおこし網であった。ほかに素潜り(現地ではいそみと称する)でテングサ、イゴ、タコ、カキなどを対象とした。小廻船も水深が浅く岩礁地帯のため20石積から320石積であった。
 現在では、大河津分水によって運ばれた砂丘に公共施設が建設され、通称「魚のアメ横」と呼ばれる鮮魚店が軒を連ね、県内外からの観光客で賑わう。
 勧進年代不詳の白山媛(しらやまひめ)神社、豊漁神として信仰の厚い二面(にめん)神社、夢窓国師縁の曹洞宗医王山円福(えんぷく)寺がある。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)