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岩船港

2009年12月02日
岩船港
岩船港

湊町の歴史

【岩船】
 集落は丘陵と砂丘に囲まれた低い盆地にあり、かつての岩船潟の西端に位置する。「日本書紀」大化4年(648)条にある磐舟柵(いわふねのき)は地理的にみて岩船潟端の当町付近であろうと推定される。
 建武4年(1337)5月日の色部高長軍忠状案によれば同月16日高長らは「岩船宿」に向かい合戦したことがみえる。康永元年(1342)8月2日の源某等2名奉書(脇川漁港参照)や翌2年12月16日の藤原公房書状に足利方から奥山(おくやま)庄の和田茂実に「岩船」までの出陣要請が出されており、この頃当地は足利方の要地の一つであった。
 貞治7年(1368)4月15日の色部長忍譲状に「越後国加納方色部・岩船井青嶋之地頭職」とあり小泉(こいずみ)庄加納のうちであった。永禄12年(1569)8月22日の上杉輝虎書状によれば本庄繁長が上杉輝虎(謙信)に抗した際、当地は本庄方攻撃の上杉方の拠点となった。また天正18年(1590)11月14日直江兼続書状写等によれば色部長真が上杉景勝の下で出羽仙北(せんぽく)郡在番を勤めた際、人馬、兵糧、物資は当地を経由した。
 享保20年(1735)の町明細帳には高680石3斗7升余、田43町6反4畝余、畑1町4反2畝余、新田畑9町9畝余、家数は百姓25、水呑91、漁師189、船大工12、商人383、酒屋7の他鍛冶屋、紺屋、糀屋など47。人数は男1935、女1671、馬26。小物成運上として漁役米、船渡米、酒屋役米、紺屋役米などがある。
 文化14年(1817)町絵図に南東から北西に町並が延び、北は石川で限られている。北国街道浜通から出羽街道浜通へ続く道が海沿いに通り、宿場町でもあった。
 「越後野志」では岩船湊について「水浅くして大船は難入」と記されるが、悪条件を越えて商船、漁船が盛んに出入りした。宝永元年(1704)の村上15万石御領内緒書留帳に商船34、漁船70とある。寛政元年(1789)の岩船町御案内帳では商船25、漁船88。延享3年(1746)の万目録帳に、同湊を経由して村上領に入る物資は上方からの塩、綿、蝦夷地からの海産物が主で、近辺で捕れた魚は浜焼きにして加工され郡内はもとより、出羽米沢や小国(おぐに 現山形県西置賜郡小国町)まで送られた。
 明治期には新潟~酒田間の定期船、函館・小樽間の不定期船、粟島との定期船の寄港地となった。また漁船の避難港の必要性から大正5年(1916)県営の築港工事が始められ、昭和11年(1936)一応の完成を見たものの漂砂のため利用できず、昭和35年(1960)地方港湾の指定を受け6次にわたる改修工事が行われ、商・漁港となった。
 大同2年(807)勧請と伝える石船(いわふね)神社、大化年中(645~650)創建と伝える曹洞宗海厳山諸上(しょじょう)寺他がある。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)