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新潟県ホーム の中の農林水産業の中の両津漁港(第3種 新潟県管理)
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両津漁港(第3種 新潟県管理)

2010年11月22日
両津漁港(夷(えびす)地区)
両津漁港(夷(えびす)地区) 平成22年11月撮影
両津漁港(加茂湖地区)
両津漁港(加茂湖地区) 平成22年11月撮影
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漁村の歴史

【両津】
 文政(1818~30)頃の小泉蒼軒の「佐渡国道程指掌」には「夷(えびす)町・湊(みなと)町をこめて両津という」と記される。
 夷・湊は相川金銀山の隆盛により諸物資の移入港として、廻船が往来、また中世末から鱈・鯳(すけと)・烏賊漁などの漁業技術の進歩に伴い、寛文の頃から漁場争いが表面化した。
 寛文12年(1672)河村瑞軒が西廻航路を開き、安永7年(1778)夷・湊は大坂廻米積出港に指定された。
 慶応3年(1867)新潟開港に伴い、翌明治元年(1868)夷港は新潟港の補助港として、外国船繋船場に指定され開港。以来地理的条件を備えて市街化が進み、佐渡の表玄関の漁港・商港として重要な位置を占めた。
 加茂(かも)湖は古名を越の湖(こしのみずうみ)と云い、潟漁が盛んで享保13年(1728)潟端村訴状で、ヤナ漁やエビ・フナ漁のあることが知られる。明治36年(1903)湖水口掘削が完成し、鹹水湖となり、漁獲物も淡水魚から海水魚介類となった。明治から大正にかけて牡蠣の養殖が始まり、現在も多くの牡蠣筏が並ぶ。
 現在の主要産業は漁業と農業。両津湾は鰯・烏賊・鰺などの好漁場で冬の鰤の大謀網も有名。
 式内社熱串彦(ねつくしひこ)神社、牛尾(うしお)神社ほかがある。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)
(追記)
 両津地区の中心部である夷と湊を分ける加茂湖の湖口は、かつて境川と呼ばれていました。明治時代の「佐渡國皇國地誌」という書物には、「両津川」と記されています。川幅は現在の湖口とほぼ同じでしたが、流れが速く、水深が非常に浅い川だったようです。
 加茂湖はそのころ淡水の湖で、コイやフナが泳いでいました。しかし、大雨が降ると湖に流れ込む川水が増えて湖岸が洪水になり、ついに明治35年ころ境川を深く掘り下げました。これで増水時には大量の湖水が両津湾に注ぐようになり洪水も減りましたが、逆に両津湾の海水も流れ込み、現在のような湖になりました。カキの養殖が本格的に始まったのは、昭和になってからです。
 ところで、縄文時代の夷と湊は陸地となっておらず、両津湾からの寄り砂が次第にその形を作り上げました。これで「潟」となり淡水化した加茂湖は、前述のとおり現在のような海水の混じった湖になりました。コンクリート製に姿を変えた両津欄干橋を私たちは特に意識することもなく通り過ぎますが、境川は多くの歴史を秘めています。
(佐渡市ホームページから転記)