このページの先頭です メニューをとばして、このページの本文へ
新潟県ホーム の中の農林水産業の中の赤泊漁港(第1種 佐渡市管理)
本文はここから

赤泊漁港(第1種 佐渡市管理)

2010年11月22日
赤泊漁港
赤泊漁港 平成17年11月撮影
こちらをクリックすると、漁港の詳細なデータが表示されます(PDF形式  266 キロバイト)

漁村の歴史

【赤泊】
 当村から海岸沿いに徳和村浦津(うらづ)へ出、北へ下川茂村を経て小佐渡山地を進み、梨木(なしのき)越で豊田(とよだ)(旧真野町)に至る道は、佐渡奉行交代の往還で、「殿様(とのさま)道」と通称された。
 「佐渡年代記」によると、慶長9年(1604)大久保長安により当村へ、横地所左衛門が港支配代官として派遣され、赤泊から水津までの村々を治めたとある。この頃から港の機構も整えられ番所が置かれた。番所付の問屋も指定され当村でも五人問屋と呼ばれる家が江戸時代を通じて港運営の中心となった。「佐渡四民風俗」によれば赤泊は澗が悪く大船が入れず、越後への小船の往来が中心で、男は松前へ出稼ぐ者多く、秋には帰ってきて昆布、鰊、鮭、数の子などの売買が盛んになるとある。幕末頃の地方向覚書によると佐渡奉行所が割当てた当村からの松前稼の人数は20人。
 天保9年(1838)の村書上帳では小物成として山役が米3石と銀2匁余、烏賊役1千300枚分、蛸役1頭分、漆木役を銀納し、椿実運上銭1貫余があり、廻船4艘、漁船17艘、糀屋2軒、造酒屋2軒、濁酒屋1軒、大工・指物師各4人、木挽・塗師・桶屋・髪結各1人。板木商9人、四十物師7人、駕籠振(魚行商)10人があった。同14年の御林改帳に字椿山に椿御林があり、その数5千600本とある。
 当村は越後との最短距離にあり、正徳期(1711~16)からは佐渡奉行の来島は寺泊(てらどまり)(現長岡市)から当村への海路が取られるようになった。文政10年(1827)には旅客運搬専用の押渡船(押切船とも)が設けられ、以後明治初期まで越佐間の旅客往来港となり、佐渡牛の積出港でもあった。
 明治に入り、松前稼ぎで大成功した田辺九郎平が同18年(1885)5千円余の私財を投じて行った赤泊港改修や同28年(1895)寺泊への定期汽船就航など港繁栄に努力した。
 港近くにある田辺九郎平邸は明治30年に建てられた北海道の鰊御殿と同様な望楼を持つ洋式建築物。
 港の近くに横地氏が願主になって建立した浄土宗西方(さいほう)寺がある。また真言宗智山派松林山禅長(ぜんちょう)寺の開基は天長4年(827)とも天徳3年(959)とも伝えるが未詳。禅長寺薬師堂は万治2年(1659)再建、文化8年(1811)当村商人八十科氏により本堂裏手に現堂宇が建立された。明治31年(1898)仏堂焼失し、同37年再建。本尊は沢根(旧佐和田町)の鋳金師 初代宮田藍堂作。明治39年(1906)歌人 長塚節は佐渡旅行中に「新築したばかりでまだ壁の上塗りもして居ない」本堂の前で村人が演ずる能を見て驚き、しかも百姓や漁夫・職人の演技者や見物人が能に相応しい品位を持っていると記している。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)
追記:初代宮田藍堂については粟島漁港の追記参照。