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新潟県ホーム の中の農林水産業の中の羽茂漁港(第1種 佐渡市管理)
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羽茂漁港(第1種 佐渡市管理)

2010年11月22日
羽茂漁港(さんぜ地区)
羽茂漁港(三瀬地区) 平成17年11月撮影
羽茂漁港(大橋地区)
羽茂漁港(大橋地区) 平成17年11月撮影
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漁村の歴史

【三瀬】
 赤岩(あかいわ)村、野崎(のざき)村、大泊(おおとまり)村が明治10年(1877)合併し三瀬(さんせ)村となる。
 赤岩村は、仮屋(かりや)川が深く山地を開析して古くから耕地が開け、内陸の方から海岸部へ開発が進んだ。海岸部の岩は赤い。「佐州巡村記」では田3町3反余、畑8町2反余、戸口19軒、115人。鎮守の羽黒神社は三瀬地区の羽黒三社の拠点で、社蔵の神鏡には正徳元年(1711)の銘がある。
 野崎村は野崎鼻の突出部で背後は台地。元禄7年(1694)の検地帳では田3町4反余、畑10町3反余。「佐州巡村記」では、戸口28軒、154人。秣(まぐさ)場が23箇所もあり、古くは牧畑による耕作の時期があったものだろう。近世後期の蛸漁場図によると石神家は87戸の蛸石を所有している。「佐州巡村記」に真言宗極楽(ごくらく)寺が見えるが今はない。
 大泊村の沖合は岩礁地帯で、蛸漁、海藻採取などの磯ねぎ漁の適地。草分けは福永福呂家、清水九平家、仲間庄兵衛家、猪股上家といわれ、三瀬地区の蛸石権利所有者7人の内4人を占める。元禄7年(1694)の検地帳では田6町2反余、畑9町3反余で、田畑を所有する者5軒が重立百姓であった。「佐州巡村記」では戸口18軒、127人。当村には本・分家関係の家が数軒在り、段丘上の湧水を持った古田を分家に際してほぼ等分に配分しており、近世初頭の海辺諸村の分家の有様を示す。鎮守羽黒神社の氏子は蚫を食さない禁忌がある。同社の祭神が渡海の途中、船底に穴が開いて海水が浸入したが、大きな蚫が船の穴をふさいだという伝承による。
 
【大橋】
 明治10年(1877)清士岡(せいじがおか)村と西方(にしかた)村が合併して大橋(おおはし)村となる。
 清士岡村は羽茂(はもち)川の河口右岸の台地縁辺部に立地。耕地は河口周辺の沖積低地にある。集落は冬居(ふい)、切越(きりこし)、岩野(いわの)、地田(ちだ)の各組に分かれる。羽茂川河口を湊川とも云う。「佐州巡村記」では田27町5反余、畑11町8反余、戸口60軒、298人。秣場が29箇所、御林は字ふなたれに1箇所ある。冬居は垣ノ内(かきのうち)の旧家堂城家を中心に成立した集落で、同家に伝わる大鉦(おおがね)に、当地を訪れて没した尼姫の伝説が残り、埋葬されたという経塚(きょうづか)山には地蔵尊が祀られる。字上の山(かみのやま)にあった白山神社は明治40年(1907)に西方の草刈(くさかり)神社に合祀された。「佐州巡村記」によると如意輪寺、南陽坊、東福寺、西光寺などの真言宗寺院や諏訪大明神、小平権現などの社があった。
 西方村は国仲、両津の平野部に次いで広い羽茂平野の西部と台地の開析河川流域に水田がある。元和3年(1617)の屋敷帳には43筆の屋敷地があり、羽茂川右岸の自然堤防城に集落があったと見られる。元禄7年(1694)の検地帳では田29町余、畑22町1反余で、羽茂川西方の洪積台地上には牧畑もあり、近世には次第に畑地化していった。同5年の西方区有文書によると家数62軒で馬59頭を所有しており、馬の数は他村に比して多い。寛政12年(1800)の村明細書には山役銀、漆木役銀、油建木役、船歩銀、葭(あし)運上等の小物成がある。洪積台地上には広大な秣場があった。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)