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内岬漁港(第1種 佐渡市管理)

2011年09月13日
内岬漁港(こわしみず)
内岬漁港(強清水) 平成11年9月撮影
内岬漁港(犬神平)
内岬漁港(犬神平) 平成11年9月撮影
内岬漁港(深浦)
内岬漁港(深浦) 平成11年9月撮影
内岬漁港(沢崎)
内岬漁港(沢崎) 平成11年9月撮影
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漁村の歴史

【内岬】
 佐渡島の南西に突出た小木半島は小佐渡山地の低い三崎野(みさきの)の台地が占め、海岸縁辺に大方の集落が形成され、南の海岸部を内岬(うちみさき)、北の海岸部を外岬(そとみさき)ともいう。内岬には深い入江が形成されるが、外岬に深い入江は少ない。

【強清水】
 強清水(こわしみず)村は慶長11年(1606)のかい役請取書によると、猟舟持が13人いる。このうち三郎左衛門は元和3年(1617)の屋敷検地帳にも見え、ほかに6人の百姓がいる。三郎左衛門は屋敷数18の内8つを所有し、且つ名子を抱える。寛永10年(1633)の本年貢雑税一紙に、本年貢は1石5斗余であるが、小物成のうち械役といか役が多くを占める。元禄(1688~1704)以前とみられる当村・深浦・犬神平三ヶ村海境取決書に、かつては沢崎村境まで当村の海であったが、寛永年中に深浦・犬神平両村地先13尋までは各々の磯漁場としたとある。元禄4年の諸役納方帳では田地215束苅、麦畑975束苅、他は烏賊役と械役が多い。戸口は本百姓5、畑百姓16、名子10、男73人、女70人。「佐州巡村記」では戸口33軒、185人。御林が字中ノ尾にある。
 正徳5年(1715)の連判証文に三郎左衛門を永代名主とするとあり、当家は三崎(みさき)の雪海苔買入れの元締を勤める一方、四十物や魚肥を商っていた。当家上の海寄り高台に真言宗智山派妙智山海音(かいおん)寺があり、本尊聖観世音は安産の仏として信仰がある。

【犬神平】
 犬神平(いぬかみだいら)村は慶安2年(1649)の新村取立願書に田野浦(たのうら)村新左衛門は犬上平の野に新家10軒を建て小船2、3隻を備えて漁もできるようにしたいと願い出、貞享3年(1686)の一札に、この願いが許可されて1村が成立した。元禄7年(1694)の検地帳では畑地のみ4町3反余、屋敷持は17筆で地字谷、けやき谷にある。「佐州巡村記」では戸口19軒、98人。慶安4年(1651)創建と伝える犬神神社がある。

【深浦】
 深浦(ふかうら)村は元禄7年(1694)の検地帳では畑地のみ6町1反余。屋敷持は22筆で地字浜、谷、河はたにある。「佐州巡村記」に戸口19軒、95人。「佐渡四民風俗」に「澗有此船四五十艘掛り申候」と記す。主な生業は漁業と船頭や水主に雇われることであったが、北前船の船主としてとして越後出雲崎、若狭国敦賀・小浜、四国丸亀、備前国尾道、出羽国酒田、松前などへ運行する者があった。文化元年(1804)、同2年の証文に当村菊池弥重郎は120石積、53石積の弁才船各1隻ずつ越後より買入れている。
 寛永10年(1633)勧進という白山神社には廻船業万屋治右衛門奉納の船絵馬がある。

【沢崎】
 小木半島の先端沢崎鼻の付根にあり、澗(入江)を有する。
「佐渡風土記」に城の始めは羽茂村(旧羽茂町)、村の始めは沢崎、町の始めは湊(旧両津市)と伝える。「佐渡四民風俗」に「沢崎村は南の端にて潮荒き所に候得供、澗有此船拾艘斗も掛り申候」と記すように、漁業のほか廻船の船頭や水主に雇われることが生業の主体をなした。「佐州巡村記」に戸口30軒、153人。田9畝余、畑8町4反余、御林は字沢木戸、西沢木戸にあった。「佐渡年代記」に浦目付所が置かれ文化5年(1808)には海防のための兵と百目筒鉄砲1挺が備えられたとある。
 白木寄りの集落外れに産土神の神石(みこいわ)神社があり、当村の農耕と漁業の起こりを物語る土佐三助・加賀早稲の伝承が残る。集落南の山寄りに真言宗智山派辻逢山薬師寺があり、境内に大正3年(1914)郡水産技手児玉祐蔵が従来の雪海苔に改良を加え、今日の三崎海苔として発展させたことを記念した雪海苔の養殖記念碑がある。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)
追記:平成23年(2011)結成30周年を迎えた和太鼓集団・鼓童の本拠地「佐渡太鼓体験交流館(たたこう館)」は沢崎灯台の近く、小木半島の見晴らしの良い高台にあります。館内では鼓童のメンバーによる太鼓指導をはじめ、手作りの原木太鼓が叩けます。建物と備品はすべて佐渡産材で作られたアースファニチャーを使っており、温もりのある心地よい空間です。
追記:平成23年6月3日(金)読売新聞朝刊全国版<文化欄>で、鼓童結成30周年を特集した記事「鼓童30年 和太鼓 世界に響く」と題した記事が掲載されました。

新潟の佐渡島を拠点とする「鼓童」が、今年結成30年を迎え、年末まで全国を巡演している。 国内のみならず海外でも公演を行い、民俗芸能の和太鼓に新風を吹き込んだ、演奏集団の歩みと未来を探る。(文化部 塩崎淳一郎)

〔演奏者の村〕
 新潟港から佐渡島の表玄関の両津港まで、高速船で約1時間。車で島をさらに約1時間縦断すると、島の南部、小木半島にある鼓童の本拠地「鼓童村」に着く。集落からも離れ、太鼓の音が木立を震わすだけのこの場所で男女25人の演奏者が日々研さんを積んでいる。
 全国各地の若者が集まって1971年に「佐渡の國鬼太鼓座(さどのくにおんでこざ)」を結成。10年間活動した後、81年に「鼓童」発足。その年、ドイツで現地の楽団と演奏して知名度が高まった。以降、太鼓の世界に旋風を巻き起こす。林英哲、レナード衛藤ら人気奏者を輩出。佐渡、国内、海外で3分の1ずつ暮らして演奏活動を行う。
 今年は30周年記念として、1月末の北米ツアーから始動。ニューヨーク・タイムズは「震災があってもいつもと変わらぬ鼓童の演奏だったが、鬼気迫る空気が立ち込めていた」と記した。

〔玉三郎の貢献〕
 歌舞伎俳優の坂東玉三郎に演出を依頼したのは2000年。マンネリを打開し、表現の幅を広げようと模索中の時期、玉三郎の奥行きある舞台を見たメンバーが島に招き、意見を求めた。
 玉三郎のアドバイスに戸惑いながらも、翌年には稽古を始め、03年、玉三郎演出の舞台公演を行い、好評を得た。続いて玉三郎主演の舞台「アマテラス」に参加し、新たな演奏スタイルによるコンサート「打男 DADAN」が誕生した。

 玉三郎はさらなる飛躍へ向けて、望みを語る。

 「時分の花ではなく、まことの花になるために、明確な方向性がほしい。そのためにメンバーが競い合い、良質の演目を多く持つことが大事。100年続けるためには、自己満足、自己完結するような集団ではだめで、客が喜ぶ作品を充実させる必要がある。『アマテラス』『打男』のように太鼓の基本は崩さず、新しい味付けを心がけなければ」。また、「芸術はお金がかかる。興行をキチンと行ってお金が回る仕組みを作り、豪華な舞台を見せてほしい。それは江戸時代以来の歌舞伎の歴史も同じ。命がけで太鼓に取り組む若者のため、私には伝えたいことがまだたくさん残っている」と意欲を語る。

〔佐渡との絆〕
 「入門日本の太鼓」(平凡社新書)を書いた茂木仁史・国立演芸場(東京)演芸課長は、「鼓童が最初に認知されたのは海外で、逆輸入の形で日本でも評価された。他の太鼓グループが従来の伝統芸能の延長線上で型を作ろうと思い悩む中、鼓童は曲に応じてスタイルを変え、和太鼓の目新しさを前面に出し、その活動は異彩を放った」と評価する。今後も海外での公演が充実した内容に高められることを期待している。
 一方、結成以来、公演の制作や運営で苦闘の日々を送った青木孝夫代表(55)は、地元佐渡の人々と「よりつながりを深める」という目標を掲げる。「島の魅力を広め、鼓童が島の地域産業になり、観光客を呼び込めるようにしたい。例えば集落ごとに特色の異なるミニコンサートがいつもあるような芸能の島に……。そんなアイデアはどうですか」

 メンバーの夢は、なおも膨らむ。

〔60歳と26歳〕
 「太鼓が好き。一生かけて打ち続けることが私の仕事です」と穏やかに語るのは藤本吉利(ふじもとよしかず)、60歳。発足以来のメンバーで最高齢だが、現役を貫く。若い頃は禁欲的に太鼓に取り組み、マラソンで足腰を鍛えた。80歳まで続ける覚悟だという。「私は芸人ではなく、ショーを見せるのでもない。太鼓を一心に打つことで、日本人の精神性を表現することを心がけてきた。今なお格闘の人生を続けています」
 26歳の中込健太(なかごめけんた)は小学生から和太鼓を始め、高校まで続けた後、鼓童の研修所に入り、4年前、正式なメンバーになった。筋骨隆々の肉体を武器にした迫力ある大太鼓の演奏で注目を集める。「様々な芸術の分野の中で、和太鼓が確固とした位置を占めるように」と若い世代を代表して願いを語り、「マニアが好む音楽ではなく、世の人がみんな知ってくれるような認知度を得たい」と稽古に励む。
(2011年6月3日 読売新聞)