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新潟県ホーム の中の農林水産業の中の西三川漁港(第1種 佐渡市管理)
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西三川漁港(第1種 佐渡市管理)

2011年12月08日
西三川漁港
西三川漁港 平成17年11月撮影
こちらをクリックすると、漁港の詳細なデータが表示されます(PDF形式  186 キロバイト)

漁村の歴史

【西三川】
 鉄砲(てっぽう)鼻と潮掛(しおかけ)鼻の突出部に挟まれた小湾が西三川湾で、東方から経塚山に源を発する金山(きんざん)川が西三川川となって海に注ぐ。集落は段丘上に多く点在するが、西三川川河口の横浜(よこはま)に明治11年(1878)開拓の民家が数戸ある。
 元禄7年(1694)の検地帳では田10町2反余、畑13町7反余、屋敷持は32筆で、地字よしか平、馬場、ばんや、ねうちば、浜、平などにある。竹御林が城ヶ平(じょうがたいら)に、椿御林が字小布施(おふせ)にあり、百姓持山は5箇所。「佐州巡村記」では戸口33軒、223人。文政13年(1830)の年貢皆済目録に、小物成として椿実81石余のほか烏賊役420枚分、船歩銀1艘分の役銀を納めた。
 真言宗智山派龍水山医王(いおう)寺がある。鉄砲鼻の脇には文化5年(1808)浦目付所が置かれ、小木街道の一里塚もあった。鉄砲鼻突出部には鉄砲場も置かれた。

追記:西三川川上流約4kmの山中に笹川十八枚(ささがわじゅうはちまい)村があり、脇を金山川が流れる。明治の西三川村是によれば古くは金山(きんざん)と笹川の二つの集落であり、文禄から慶長(1592~1615)の頃から笹川十八枚村と呼ばれたという。十八枚は砂金1ヶ月180両請負高を云う。笹川は西三川の、金山は小立村の出村であったとも云う。「今昔物語集」巻26の「能登国堀鉄者、行佐渡国堀金語」に伝える砂金の取れた場所が当地と言われ、中世から江戸時代にかけて佐渡の砂金山の中心となった地域。村の名称、宮が大山祗(おおやまづみ)神社(山の神)、これを管理するのが修験山光(さんこう)院であること、中世からの阿弥陀堂を持つ、田畑が少ないことなど全て当地が砂金産業を主体としていたことを示す。
(出典:新潟県の地名 平凡社刊)
追記
 佐渡における産金は、12世紀末成立とされる「今昔物語集」に載る砂金採取の逸話が最古とされ、その舞台が西三川流域といわれる。江戸時代には砂金を含む山肌を掘り崩し、そこに水路を引いて堤に溜めた水を一気に流し込んで土砂を洗い流し、残った砂金のみを採取していた。当地にはこのような採掘跡や水路跡が広範囲にわたり残っている。
 平成23年5月20日「佐渡西三河の砂金山由来の農山村景観」を重要文化的景観に選定するよう国の文化審議会で答申された。これまで「近江八幡の水郷」など全国で24件が選定されており、新潟県では初となる。
 今回選定の519.3haは、平安時代に採掘が始まった佐渡最古の金山とされる西三河金山ゆかりの地で、明治5年に閉山後は砂金採掘跡地や周辺空閑地の農地開発、砂金流し用水路の野業用水路への転用などにより、鉱業から農林業へと産業構造の転換がなされた。また鉱山集落として栄えた笹川集落周辺には、砂金採掘によって形成された平坦地や独立丘陵、裸地、急傾斜地が点在し、その特異な地形条件を巧みに利用した屋敷配置や砂金採取で生じたガラ石を用いた石垣などの住居形態を見ることが出来る。
(抜粋:佐渡金銀山だより 新潟県世界遺産登録推進室・佐渡市世界遺産推進課)